「偽りの仮面」 それまで、研究を続ける事が自らの生きる道だと思っていた。 サフィールと並んで譜業のネイス、譜術のバルフォアと呼ばれた彼は、自他共に研究職に就くのが当然だと思った。 確かに槍の腕も悪くはなかったのだが、譜術に比べれば一般軍人程度の実力だと、自身では思っていたから。 『親父が死んだ。俺は…すぐにでもグランコクマに戻らなきゃならない』 いつものようにしんしんと雪が降っていたある夜、唐突にピオニーはそう告げ、慌しくケテルブルクから去っていった。 サフィール以外にさして会話の相手はなく、友人…ましてや親友などと呼べる人間がいなかった天才少年に、ようやく出来た友人――――数年経つ内に親友の地位にまで持ち上がっていった彼…ピオニーは、青空にこそ映えそうな綺麗な金髪に、程よく日に焼けた褐色の肌の、次期皇帝の有力候補たる身分の少年だった。 研究の名目で部屋に篭りがちだったのを、ピオニーは根気強く誘い、やがて研究から少しばかり遠ざけるまでに至った。 研究と同じくらい、彼はピオニーとの時間を大切にし、彼に対しては親愛の情を見せるようになって。 彼の影響もあったのだろう、研究以外の道も、あるいは選択してみるのも面白いかもしれないと思い始めていた矢先、親友はケテルブルクを去り、水の都へと行ってしまった。 見たこともない海の向こうの都は、しかし生まれも育ちもこの雪国であり、外に興味のない彼にとって、それまでは大して意識が向くような所ではなかった。 そんな都のことを考えるようになったのは、そこへ行ってしまうと言った―――いや、戻ると言った彼のせい。 王族であり、もしかすると皇帝になるかもしれないという位置の男である事は理解していたが、こうも早く現実になるとも思っていなくて、正直狼狽してしまったというのが本当の所。 物理的な距離をもどかしく感じるようになったのは、実のところ、別れてからだった。 白い世界には不釣合いなまでの屈託のない笑みを浮かべるピオニー、その彼とはこの先ずっと会えないのかもしれない。 そこまで思考がいけば、自然と寂しさがこみ上げてきた。 それはあちらも分かっていたのだろう、同じような顔をしていたので、自分だけこんな気持ちになったいる訳ではないのだと、少しだけ安心した。 「―――…私が、ですか」 ジェイドは、提出期限の過ぎた書類を上司に押し付けられ、少しだけ困惑した顔をした。 デスクワークを苦手とし、中々にルーズな所がある上司の男は、どうやら期限を見間違えていたらしい。 偉そうにしながらも、しかし脂ぎった顔に少しばかりの汗を滲ませた笑顔で、ジェイドに数枚の紙を渡してきた。 彼は何処でかぎつけたのか、ジェイドとピオニー殿下が親友であった事を知っているらしく、「お前なら許してくれるだろう」と、あろう事か自分のミスを部下に押し付け、ジェイドと殿下との間柄を利用し許しを請おうと考えたらしい。 そんなに甘い関係ではないというのに。 内心で毒づくも、それをこの馬鹿に言った所で無意味と判断し、ジェイドは得意の愛想笑いで頷いた。 ――――――12くらいの頃、彼はカーティス家の養子となり、数年の後軍人になった。 理由は、捻くれた彼らしからぬ純粋なものだった。 太陽のような存在である、今でいうところの次期皇帝――――ケテルブルクで別れてからずっと会ってない、かつての親友を助けたいと、心から思ったのだ。 次期皇帝最有力候補としてグランコクマへと戻った、あの当時の荒れようは雪国にも聞こえていたくらいだ、相当大変な思いをしているに違いない。 そう思うと、いてもたってもいられず、まわりの意見も聞かずに決めていた。 勿論、大きな目的がある研究の方も捨てがたかったが、軍属でも研究くらいは可能だと踏んでの志願だった。 それでもジェイドにとっては、これは研究以上に意味のある事だったのだ。 だが、線引きは自分なりに決めていて、軍人となる以上、いつ死ぬか分からない自分の存在は、徹底的に彼に忘れ去られるよう、気にかけられる事のないよう、気をつけた。 その為なら、他人のフリをして彼に少しばかり寂しそうな顔をさせたって、構わないとさえ思えた。 慣れ親しんだ研究者としての名―――バルフォア。 その家名に未練も執着もないが、軍という組織において、なかなかにこの新しい家名であるカーティスの名は使えるらしかった。 お陰で、入隊の際は最前列に並ばされたり、何かと大役を任され、数年のうちに、若い身空で大尉の地位に納まった。 勿論地位も利用価値はあるものの、家名と同じでそれ以上の意味はない。 だがそんな事以上に、ジェイドの胸のうちには、ある種の驚きと恐怖が満ちていて、昇進を祝う義理の家族の声など、耳に入らなかった。 大尉になってから、何かと殿下に接する仕事が増え、自然と対峙する機会が増えて、ある変化に気付いたのだ。 「………殿下、物思いにふけるのは結構ですが、仕事をして貰わねば国政が滞ってしまいますよ」 ジェイドと対している時だけなのだろうか、ピオニー…いや、ピオニー殿下は、何かと反応が薄く、何処となく不機嫌なように見えた。 部屋に入ってから幾度か声をかけたが、そのどれもが上の空で、今の声かけでようやく、彼の頭脳は回転し始めたようで。 夢から覚めたような顔をして、一瞬ジェイドを見る目が昔のものに見え、ジェイドは柄にもなくうろたえた。 だがそれは表に出すまいと必死に押し殺し、もう一度声をかける。 「殿下?」 「ああ、すまない。」 すると、すぐに彼は国政を担う王族の表情へ戻り、仕事を再開した。 その間には、勿論ジェイドの決意した通りの、王族と一介の軍人の空気が流れている。 これでいいのだ、これが当然なのだとジェイドは思っていた。 だけど―――――… 「――――これで構わないだろう。ジェイド、すまないがこれをアスランの所へ」 冷たい声。 その声に、出来る限り平淡な声音で応じると、きびすを返す。 望んでいた筈のこの関係が、空気が。 いざ目の前に流れているのを感じると、時折ひどく寂しくなるのだ。 やはり、殿下は自分と相対している時だけ不機嫌なようだし、何より守りたいと願った太陽のような微笑も、この宮殿では一度だって目にした事がない。 守りたいと思い、ここへ来て。 しかしこれが本当に望んだ事だったのか…… ジェイドには、答えが出せないままだった。 next→「本当は」 +反省+ |