「奥歯を噛んで」 久しぶりに血の気が引く思いがして、ピオニーは思わず鼓動の早くなった胸を押さえた。 軍人になった以上、死ぬ確率がとても高いことは分かっているつもりだった。 だが同時に、『ジェイドだけは絶対に死なない』という、盲目的な確信があった為に、さしたる不安を抱いたことがなかったのも、また事実だった。 その証拠に、今目の前で、つい先ほどまで生死の境を彷徨っていたらしい青白い顔をした男の寝顔に、とてつもない焦燥感と僅かばかりの安堵を覚えている。 死なない―――いかに死霊使いと恐れられる男であっても、死は等しく訪れるものだから、死なないなんて事は絶対にないのに。 ましてや、非情が当然、汚い手を使ってまでも敵を打ち倒そうとするであろう、戦場で…死なない人間、負傷しない人間を探す方が難しい。 皇帝たる者、そんな事はとっくに分かっていたのに………いや、分かっているつもりだっただけなのだろう。 まだまだ俺も若いな、と自嘲しながら、ベッドの傍らに腰掛ける。 仕事は――――…大臣なんかに邪魔されないように、全て済ませてきた。 ジェイドが重症で帰ってきた、と聞いてからというもの、すぐにでも仕事を投げて駆けつけたかったのだが、傍らに居た臣下がそれを許さなかったのだ。 『たかだか大佐ごときの怪我で、あなたが仕事を放り出す理由にはなりません。』 そう、言われた。 理性では分かっているつもりだったのだが…今まさしくそれと矛盾する行動に出ようとしていた事実に気が付き、苛立ちながらも元の位置に戻り、それからは狂ったようなスピードで仕事を片付けていった。 あまりの早さに大臣が目を白黒させているのを後目に、ピオニーは矢のような早さで軍本部の医務室へと向かい、そして白い肌に更に白い包帯を巻きつけた彼と対面したのだ。 「洒落になんねぇよ…ジェイド」 自身でも驚くほどの掠れた声で、その名を呟く。 いつ目覚めるかも分からないのに、ピオニーは噛み締めて軋んだ音を立てた奥歯にも頓着せず、ただ見つめ続けている。 シーツから出た腕には血の染みた包帯が巻かれているし、額、頬、首、肩も似たような状態。 ともかく視認できるだけでも数多くの場所を痛めている。 傷は術で塞いでいるらしいが、それも追いつかない程の怪我らしい。 出血も酷かったとの事で、今彼の雪の肌は、白を通り越して土気色にさえ見えた。 「………っ…」 「!!」 目覚めるまで大分長くかかるだろう、という医師の言葉とは裏腹に、彼の瞼が僅かに震えた。 死んだっておかしくない程の怪我だったのだ、他でもない彼だからこそ、咄嗟の判断などで耐えられたのかもしれない。 その時の状況を伝え聞いた時、本当に背筋が凍った。 前の陸戦艦が使えなくなって、次の艦が届く直前だった、そんなタイミングで攻め込まれて、距離でいうと一番近く、遠距離攻撃の得意なジェイドの隊が向かうのは、至極当然の事だった。 勿論それにすぐに頷けたわけではないけれど、公私の混同を何よりも嫌うジェイドだからと、渋々納得したのだ。 その結果が、これ。 ゆっくりと瞼が持ち上がっていくのを、彼は祈りにも似たような気持ちで見つめる。 「…………」 眼鏡を外されている為に、凄烈な紅の瞳がレンズによって緩和される事なく現れた。 まだ意識が混濁しているのだろう、いつものような強い眼差しではなく、何処かまだ夢の中を彷徨っているような目が、ややあってピオニーを捉える。 「………………へい、か」 ぼんやりとした表情の割に意識はしっかりとしているのか、思ったよりもしっかりとした声がピオニーの耳に届き、彼は一気に肩の力を抜く。 すぐに先ほどまでの真剣な眼差しを引っ込めると、大げさなまでに溜息をついた。 「よぉ、気分はどうだ?」 「………貧血のお陰で気持ち悪いですね」 ピオニーの台詞に、いつもより一拍遅れはしたが苦笑で切り返す彼は、この大怪我だというのにさすがというべきだろうか。 ともかくこのまま大人しくしていれば、すぐに回復するだろうとピオニーはふと考えていた。 「それで、どうなりました?状況は」 「――――…今はそんな事考えるな。大人しくしていてくれればいい、後の事は任せておけ」 「ですが、あそこは私の管轄ですし…」 「ジェイド!!」 突然ピオニーが声を荒げたものだから、ジェイドは吃驚して口を噤んでしまう。 普段は太陽のように穏やかで、いつも余裕の笑みを湛えている彼が、珍しく語気を強め、不機嫌な様子で。 珍しく、少しばかり困惑した表情を滲ませて、ジェイドは主君の次の言葉を待った。 「国境はもう、アスランに任せた。お前は、回復後は暫くグランコクマに駐留してもらう」 聞いて、ジェイドは彼らしからぬ采配に眉を顰める。 フリングス将軍は、階級的にも指揮する隊の性質からしても、宮殿や街を守るのに適している。 ジェイドの隊や他の捨て駒にできそうな隊が行くべき国境に、例え圧力が目的だったとしてもフリングスのような将軍という地位の人物を派遣するのは、最適とは言えない。 「……柄にもなく心配させられたんだ。これくらいの我侭は許せ」 何故…という言葉を発するのが躊躇われて、視線で訴えていたら、ピオニーは消え入りそうな声で低く呟いた。 思い出したくもない、つい先ほどまで、本当は死人なんじゃないかと思えるほどに青白かったジェイドの顔が脳裏を過ぎる。 死が理解できない――――…そう言って笑う彼に、言い返してやりたい。 逆に羨ましいくらいだ、と。 自分の中にぽっかりと生まれる空虚な気持ち、圧倒的な喪失感、無気力。 頭から冷水を叩きつけられたような、あんな気分を何度も味わいたくはない。 軍人になるだなんて、カーティス家に養子に行くといった時点で、止めておけば良かったのかもしれない。 軍人一族であるカーティス家に行けば、彼が軍人になるのは自然な流れだったろうに。 そもそも研究者であった彼が、軍人なんておかしいのに。 しかし、それでもピオニーは止めなかった。否、止められなかった。 自分の隣で共に歩んでくれようとする彼の、素直じゃない気持ちが嬉しくて、止められなかったのだ。 勿論、それでもこうして大怪我をされたり危ない橋を渡られる度に後悔するのだが。 結局、全部は後の祭りなのだという結論に達すると、深く息を吐いて自らを落ち着けジェイドを見やると、彼は苦笑とも小ばかにしているともとれる表情で、ピオニーを見つめていた。 「……困った皇帝ですねぇ」 「…………悪かったな」 「ええ、本当に」 力なく笑うジェイドは、どうやら照れ隠しをしているつもりのようだった。 素直に心配してくれてありがとうございます、くらいの言葉は聞いてみたいと思うものの、そんな事を言うジェイドはジェイドじゃないとも思う。 ああ、いつものジェイドだ、と実感すると、何だか先ほどまでの張り詰めていた緊張が、一気に解けた気がした。 ジェイドも、短いが会話をして疲れたのだろう、いつの間にか再び目を閉じ眠りについている。 顔が少し横向きのままであるせいで顔にかかっている髪を払ってやりながら、ピオニーはその頬へと顔を寄せた。 「俺の許可無しで、勝手に死ぬなよ?―――――…ジェイド」 囁いた一言は、既に深く眠っているであろう彼には届かないけれど、とうに彼自身理解しているだろう。 自分で達した結論に一人で笑って、ピオニーは持ち込んでいた本をようやく読み始めた。 next→「ジレンマ」 +反省+ |