[義務 前編] 「……?」 懐かしい響きの単語が聞こえたような気がして、ジェイドは思わず自室へと向かっていた足を止めた。 色々と無駄のある軍の体制や配備の仕様、はては戦術にまで口を出していたら、すっかり強硬派の軍人はおろか、将軍にまで気に入られ てしまい、忙しい日々を送っていただけに、まさか自分の幻聴ではないだろうかと思ったくらい、それは聞く筈のない単語だった。 こんなに人の通りの多い場所に自室があるというのに、未だに男との関係は続いていて、職務の忙しさも相俟って、ジェイドの疲労は凄まじいもの。 だから、きっと聞き間違いだろうと思いなおして、ジェイドは止まっていた足を再び動かし始めた。 まさか、とっくにホドと一緒に禁句となった筈の、『フォミクリー』などという言葉が聞こえる筈がないのだから――――――。 ――――――しかし、疲労していても言葉はきちんと拾っているらしく、やはり聞き間違いようのない単語が、誰かの会話の端々に混じっている のが聞こえてきた。 音源が何処なのか探ってみれば、階段の影になっている部分で、下級兵士らしい二人の会話から聞こえてきているのが分かった。 「本当にそんな事で殿下を?」 「ああ、アヴェニール中将は絶対に大丈夫だと仰っていた」 興奮冷めやらぬ、といった語調で、一人が息巻く。 まさか、自分達の会話が第三者に盗み聞かれているなどと、気付いてもいないのだろう―――――…会話をする場所そのものに、配慮がない。 アヴェニールとは、確か強硬派の中でも特に力があると言われている壮年の軍人の名だ。 その男が、一体何だというのか。 ジェイドは悟られぬようにそっと、会話に耳をそばだてた。 あの技術を、二度と外に出さないようにしよう―――――…。 そうジェイドに決心させたのは、ピオニーの存在による所が大きかった。 彼は、まさか自分がきっかけだったなんて知らないだろうけど。 彼の…ピオニーの何気ない一言は、それだけジェイドにとって衝撃的なものだった。 いや、今まで幾度となく聞いたことがあったとしても、聞く耳を持っていなかったのかもしれない。 それが他ならぬ近しかった人間から発せられた事で、ジェイドの中で意味をもった言葉として響いてきたのだろう。 『いや……あいつは一人だけだ。代わりなんて――――…』 通りかかっただけだったので詳しい事は知らないが、断片的にその台詞だけが聞こえてきた。 それは真理であり、ジェイドが認めたくなかった事実でもあった。 『代わり』。 フォミクリーの技術は、そもそも元の素材と同じものを作り出す技術であったから、まさしく代替品そのものだった。 それはモノだけだったなら、まだ良かったのかもしれない。 しかし、ジェイドはヒトにまでフォミクリーを用いた。 最初は恩師を、それ以降はあらゆるヒトを使い、レプリカを作り。 死体漁りの噂から、丁度「死霊使い」の二つ名が浸透しつつあった時であった折に、ピオニーの台詞を通りがけに聞いてしまった。 たまたま、本部から呼び出されて戻ってきただけだったし、その時はまだピオニーに軍に居る事を知られていなかったが、その言葉は すとんとジェイドの胸に落ちてきた。 代わりなんて、存在しない。 唯一無二であった筈の先生が、二人―――――…全く同じ人間が二人も出来る筈がないのだ、と。 そう言われた気がして、ジェイドは自身の研究が見えなくなっていった。 これだけを信じてやってきた、その為ならどんな事だって。 『自分』という存在の為に亡くなった先生を蘇らせたい、ただその一心で続けてきた筈だったのに。 なのに、ピオニーの一言で、その長年の研究をあっさりと放棄するに至った。 後悔は…している。 何故こんな研究を続けてしまったのか。 罪深いこんな技術など、さっさと捨ててしまえば良かったのだ。 今なら、そう思える。 至った考えの相違で、一人、昔馴染みを失ってしまったけれど。 ―――――そんな罪の証は、自分一人だけが負うべきものだ。 研究を手伝ったサフィールも、研究を推奨した先帝も関係ない。 結局の所、そのまま研究を続行したのは自分なのだから。 バタン、と、らしくもない荒っぽい音を立てて、ジェイドは扉を閉めた。 「――――…」 気分が悪い。 体調が、という事ではなくて、精神的に。 「今更……フォミクリーなどと」 先ほど立ち聞いた内容、それはジェイドにとって腹立たしいとしか言いようの無いものだった。 軍部といえど、その全てが戦を好ましいと思う者の集団という訳では決して無い。 大きく分けると穏健派や強硬派といった派閥が存在していて、そのトップともいうべき代表的な人物というのが、穏健派でいう所の ピオニー、強硬派でいう所のアヴェニールといった人物だ。 そんな彼らが自ら行動を起こせば、お互いの派閥に影響を与え、場合によっては優劣などもひっくり返る事がある。 つまりは、アヴェニールが何かを企んでいるという事は、それだけ重大な事態なのだ。 しかも、その内容というのが、過去のフォミクリー研究の咎―――つまりは、研究の行き詰まりによる放棄、それに追随してくる予算の 無駄、失策のことだ―――を、先帝の独断ではなくピオニーが口を挟んだ事にして、彼の今の地位を脅かそうというもので。 ざっと聞いただけなので半分程度は予測になるだろうが、自分のやっていた事でもあるので間違いはないだろう。 叩けばいくらでも埃の出てくる内容だから、一体何処を突く気だろう。 だが、どんなことを企んでいるかという事よりも、まずはピオニーに被害が及ばないようにしなければ。 それが、フォミクリー研究を長く続けてしまった自分の義務であり、意思だ。 それに何より、己の咎のせいでピオニーの未来に影響を及ぼすことが、許せなかった。 固い決意をする事で自らを落ち着けると、ジェイドは深く息を吐いて何事も無かったかのように机へと向かっていった。 next→[義務 中編] +反省+ |