[義務 後編] ジェイドの一日の生活は、実に平凡なものだ。 定刻よりもずっと早くに軍本部へ出勤し、デスクワークを黙々と続ける。 そして昼前には上司の元へ赴いて書類にサインを貰い、午後は一般兵に混じって訓練。 その後は艦の整備部に顔を出し、いくつか自身で気になった点に手を貸したりしたかと思うと、また執務室に戻って残った仕事も片付けて、 定刻かそれより少し遅くに退勤する。 見る限りでは、しばしば昼食を抜いている事、それから時折男と寝ているらしい事を除けば、模範的な軍人の一日であろう。 ――――――…これが、一週間彼を見ていて思った、フリングスの率直な感想だった。 それにしても、たびたび男を変えているのは、果たして性欲処理だけが目的だからか、それとも何か別の理由があるのだろうか…。 ストイックな外見からして、あまりセックスに興味がなさそうに見えるから、この点だけ妙に不思議だった。 一応、セックスに及んでいるとは言わずに、様々な人物と会っているとだけ報告はしたが、それが彼を疑う理由足り得るとは思えなくて、 フリングスは疑問符を浮かべたままピオニーを見た。 彼は先日と変わらず難しそうな顔をしているだけで、様々な人物と会っている、という事は特に気にしていないようだった。 具体的な個人名も上げはしたものの、片眉を一瞬吊り上げるだけで、うんともすんとも言わない。 しかし暫くして、ピオニーは眉間に皺を寄せたまま、他の人物からのものらしい報告書を見ながら口を開く。 「ジェイドの今日の予定は分かるか?」 「は、はい。本日は午前中は通常業務、午後には第一〜第五師団の合同軍事演習に参加の後、夜、水上公園にて行なわれる鎮魂祭の警備に あたる予定です。」 「…そうか。アスランも同じ、だった筈だな?」 確認するようにピオニーが尋ねたが、しかしフリングスは頷きかけてかぶりを振る。 「いいえ。2日前に担当の変更が通達されまして――――…日中の予定はほぼ同一ですが、夜の警備だけ……」 「……………」 ピオニーは、どうやら考え事をする時には顎に手を当てる癖があるらしい。 そんな様子を見ながら、フリングスは心ここにあらず、といわんばかりの彼を見やる。 まだ若く溌剌とした外見には似合わない、老将のような落ち着いた、だが深い思索に耽っているかのような顔をしたかと思うと、その顔 を真っ直ぐにフリングスへと向けた。 「――――――…出席予定なのは、あいつだったな?」 言って、ピオニーは視線を僅かに窓へと移す。 その向こう側には、血筋としてはピオニーと同格である一人の皇太子の部屋があり、ピオニーはその人物のことを指しているようだと察した フリングスは、僅かなタイムラグの後に深く頷いた。 「…………分かった。とりあえず今日はそのまま帰って構わない」 それだけ言うと、ピオニーは退室を許可した。 その表情がいやに無表情だったのが印象的で、何だか帰ってはいけないような気がしたのだが、退室を許可された以上すぐに出て行かなければ ならず、後ろ髪を引かれる思いで、フリングスはその部屋を後にした。 「どうされたんだろう…?」 何か、引っかかる。 直感がそう告げているような気がして、フリングスは扉の前で立ち尽くしたまま、どうしたものかと考えた。 カーティス大佐が、まさかピオニー殿下を裏切るなんて事はしよう筈もないのだ。 それなのに、未だに殿下は大佐の動きを気にしている。 その理由が何なのか―――――…恐らくはあの報告書が関係しているのであろうが、それさえ分かれば、こちらも動きやすいのに。 だが、極秘事項なのだろう。 いつも開けっぴろげである筈のあの殿下が、今回ばかりは難しい顔をしたままなのを思えば、自明だ。 「………!」 はぁ、と一つ息をついて踵を返した折、唐突に悪態をつくピオニーの声が聞こえてきた。 彼も自分が動けず、何だかんだでもどかしい思いをしているのだろう―――――…そう思えば、彼の手足になる事は何の苦でもない。 自分に出来る事は、彼の指示通りに動く事。 だが、それ以上に彼の本心をきちんと汲みとり、意に沿うよう動くべきだ。 決心したフリングスは、背筋を伸ばしたかと思うと、軍本部へと急ぎ戻っていった。 「―――――…はぁ。」 思わず漏れたため息は、疲労の濃いものだった。 昼前の、いつもならば上司のもとへと赴いている時間、ジェイドは一人執務室にいた。 卓上にばらりと広げてあるのは、今日の夜に行われる鎮魂祭の警備の配置図。 昼休みの後、すぐにテオルの森で軍事演習が行われる関係で、今日はとても忙しい為、今のうちに配置を確認しておこうと目を向けたのだが。 それに付随していた今日の護衛対象の面子の名簿を見て、彼は息をついたのだった。 マクガヴァン将軍、アヴェニール中将、それにピオニーと同格の殿下とそれより少し血筋の遠い、王族の一人。 何故かピオニーは出ない予定になっているようで、そこだけは良かったとは思うが。 よりにもよってジェイドがあたってしまったのは、アヴェニールのすぐ傍である。 敵の懐で親玉を守ってやるようなものだ。 全く、滑稽にも程がある。 そう思えば、自然とため息が漏れてくるというものだ。 まぁ、幸い自分は派閥に所属していないと思われていることもあって、そのせいでこの配置になったのだろうという予測はできる。 名簿を見る限りでは、ジェイドが秘密裏に情報収集をして知っているピオニー派の兵が多かったからだ。 その分宮殿の警備にはそれ以外の兵が多いだろうと考え、ジェイドはマクガヴァンに進言して、あえてフリングスを警備から 外してもらった。 彼は唯一、ジェイドがピオニー擁護派と知っている人物で、この提案に苦笑を浮かべながらも了承してくれた。 ―――――…後の問題は、あのアヴェニールだけ。 彼に本当にそうと気付かれないまま秘密を暴く事が出来れば、ジェイドの勝ちだ。 そう考えれば、この配置も逆にチャンスとも思える。 「ジェイド大尉、ちょっと宜しいですかな」 考え事をしていたせいか、ノックの音も気付かないうちに、関係を持っている軍人の一人が部屋を訪れていた。 内心、気付かなかった自身の迂闊さに苛立ちを覚えつつも、変わらぬ態度で振り返る。 男は、強硬派の一人。 取るに足らない男だったが、何かと情報を集めるのに便利な、程々の地位にいる為に、関係を切るに切れない相手の一人だった。 そして、知らない内にジェイドに陶酔し、少し別の感情でもって近づいてきつつある、かなりの煩わしさの相手でもある。 「何か御用ですか?」 今日は約束をしていなかった筈でしたが、と何でもない風にうそぶくが、熱烈に自分を捕らえる瞳が、用件を如実に物語っていた。 「…………」 「…大尉」 彼も、用件は分かっているだろう、といわんばかりに、呼びかけたかと思うと一歩ずつ近寄ってくる。 しかし、今日は色々と予定が詰まっているのだ。 自分は今日は警備に出なければならないが、それでもできる仕事は沢山ある。 そんな貴重な時間を、こんなつまらない男に潰されてなるものか――――――…。 セックス自体は好きでも嫌いでもないけれど(無数の男と寝なければいけないという点ではむしろ嫌いな方だが)、ジェイドは仕事に支障が 出る事だけは許せず、支障が出るならば蹴倒してでも拒む。 それでも、元々の体力の差のせいで、しばしば押し切られてしまう事があるのだが…今日は特に避けたいと思う。 あの男との一対一での攻防が待っているのだ。 精神的に疲労が溜まるであろう事を考えれば、誰ともしたくないと思うのは当然の事。 だが、ジェイドの拒絶の言葉も意に介せず、段々と距離は縮まっていく。 「…ジェイド、大尉…っ」 「……………その名では、呼ばないで下さい」 腰を捉えられ、とうとう逃げられなくなったジェイドは、苦々しげな顔を明後日の方向に逸らしながら低く応えた。 ――――――…陽が、沈んでいく。 グランコクマの象徴でもある滝が夕日の紅から闇色へと変化していく様をぼんやりと眺めながら、ピオニーは子ブウサギを膝に乗せ、 その頭を撫でていた。 傍らには、子ブウサギの散らかした部屋をせっせと片付けるメイド達。 そして、もうすぐジェイドが警備にあたる予定の、鎮魂祭が始まるという時間であった。 「―――――…お前達」 ふと、ずっとぼんやりと窓の外を眺めていたと思ったピオニーが唐突に声をかけてきた事に驚いて、メイド達二人は弾かれたように顔を上げる。 すると、ピオニーが丁度膝の上のブウサギを開放して立ち上がろうとしている所だった。 「どうなさいました?殿下」 「悪いが、アスランを呼んできてくれないか?ちょっと急ぎの用を思い出した。もう帰る頃だから、至急、探してきてくれ」 「かしこまりました」 ついでのように「ここの掃除はもういいから」と告げられ、メイド達は何の疑問も感じずに、急ぎ足で退室していった。 急ぎの、と言ったのが効いたようだ。 一つ息をついて、周りの気配を探る。 そして案じる程気配が多くないことを察すると、彼はにやりと小さく笑った。 …その5分後、ピオニーの不在はすぐに知れ渡る事となり、定刻に帰る筈だったフリングスは、真っ青になって部屋へと駆けつけた。 「殿下は?!」 「き…っ宮殿の何処にもいらっしゃいません!申し訳ありません!!私達が目を離したばかりに……」 フリングスを呼びに来たメイドが、今にも泣き出しそうな顔でおろおろと報告する。 だがフリングスの方は、それをなおざりに宥めながら、何とか行くであろう場所を予測するべく必死に頭を回転させていた。 ―――――あの方は、私の報告を聞きながら書類に目を通されていた。 何かしら、大尉の周りにきな臭いものがあるのだろう―――――…。 ヒントも無しに予測するには、これが限度だった。 焦りが濃くなっていくフリングスの顔を見て、メイド達もいよいよ慌てだして、「もう一度見てきます」と言うなり急いで部屋を飛び出していく。 バタン!という勢いの良い音と共に急に静かになった室内を、フリングスはふと見回した。 残っているのは、自分と、ピオニーの可愛がっている子ブウサギが一匹。 「………おまえ、それは………?」 ブウサギの足元に、恐らくは仕事の関係であろう書類を見つけたフリングスは、ブウサギをひょいと抱き上げて書類の上からどかせ、拾い 上げる。 ピオニーの判も、そして誰の判も押されてはいない上に、何の件かも明記されていない。 何の書類だろう――――…と、それが重要であるかどうか吟味することも忘れて内容を見てしまい、そして固まった。 「殿下………まさか」 これは、きっと…いや、間違いなく、あの時ピオニーが読んでいたものだ。 そして、わざわざ自分を理由にメイド達を追い出し、フリングスをここへと呼び寄せ、偶然か必然かは分からないが、ブウサギを介して 情報を発見させた。 おぼろげだった予測が、嫌な方向でかちり、かちりと合致していく。 「…………行くしかない、な」 自分のこれからの行動を理解したフリングスは、腰元に剣がある事を確認すると、その報告書をくしゃりと握りつぶして部屋を飛び出していった。 next→[貴方という存在] +反省+ |