[初めて見た表情]



























少しばかり汗ばむような――――そんな初夏ならではの日差しの中、王族の紋の入った御用馬車に乗ったピオニーは、エンゲーブへと向かっていた。
小さいながらにこの国の殆どの食料を生産し、世界中に供給するこの村は、マルクトにとっても重要な場所である。
食糧供給が安定しているという事は、それだけ国民の心のゆとりにも繋がり、落ち着いた国を作る事ができる。
それも当然、人間の三大欲求に関わっているからに他ならない。
戦争の際にも、食料供給を絶つという作戦が立派に戦略的戦術に値するのだから、食物の力というのは凄まじいものなのだ。

知らず内に戦時の事を想像していた自分に嫌気が差し、彼はすぐに頭を振り、思考を中断させた。
そうだ、ブウサギを見学に行くようなものなのだ。
決して、食料事情の確認や戦争時にどれだけの間、兵をまかなうだけの食料供給が保てるか、そんな事を調べに行く訳ではない。
言い聞かせながら、しかし気休めだと自身でも理解していた。
―――――実際には、まだピオニーは王位に近いとはいえ皇帝ではなく、あくまで現皇帝が戦争推奨派である以上、ピオニーは大人しく この視察を皇帝の指示通りにこなさなければならない。
それは当然の事であり、そして皇帝ではない以上、逃れられない事。
早くあの男を失脚に追い込んで均衡状態に戻さなければ、戦争は簡単に勃発してしまう事だろう。

この視察とて、事実キムラスカに対する挑発行為の意味合いを持つものだ。
それにあちら側の王が乗ってしまえば、きっと、国境に控えている互いの軍が激しく衝突する。

それだけに重要なこの視察を、ピオニーはあちらの気に障らないような、穏やかな形で終わらせなければならない。
きっと、キムラスカの密使あたりがエンゲーブに潜んでいて、事の次第を報告するだろう。
その密使に、マルクトは決して戦争を推奨しているわけではないのだというメッセージを送る事が出来るような、そんな行動をしなければ。
…勿論、皇帝の使いである以上とてつもなく難しい課題ではあるのだが。

「――――…殿下?」

ピオニーが難しい顔をしていたせいなのだろうか、珍しくジェイドが声をかけてきた。
それがとても嬉しかったが、それでもこのもやもやとした思いは消えない。

ジェイドの同行。
これが、友人として心配してついて来てくれたのだったら、どんなに嬉しいだろう。
だが、現実はあくまでピオニーが『命令』したから来ただけであって、必ずしもジェイド個人の意思ではない。
少しくらいは、自分の事を思ってついて来てくれているかもしれないが、実際の心の内は、彼本人に聞いてみなければ分からないのだ。
昔より感情を露にするのが苦手になっただけなんだ、と自身を納得させたとはいえ、やはり一抹の寂しさは拭えない。

自分を支援してくれるつもりなのだ、というのは先日の件で分かったし、嬉しかったのだが―――――…それ以上に、昔のような仲 に戻りたい、と願ってしまう。

きっと、これは単なるわがままなのだろう。
いずれ施政者になるかも分からない身の上で、昔と変わらぬ関係で、態度でいて欲しいなどと。
もしジェイドにこれを言ったなら、怒るどころか見限られてしまうかもしれない。

それも分かっているからこそ、ピオニーは元に戻りたい、と言い出せないのだ。





気難しい顔をしたまま自分を一瞥し、再びその顔を晴れた外の景色へと移動させたピオニーを見て、ジェイドは小さく溜息をつく。

――――――…きっと、彼は気負い過ぎているのだろう。
あれほど天真爛漫に笑う子供だったピオニーは、大人になってその表情を曇らせることが多くなっていた。
理由は勿論分かっていたけれど、ジェイドにはその顔を晴らす術が分からなかった。

幼少期を共に過ごしたとはいえ、今ではただの臣下でしかない自分が、どうやって彼を慰めればいいのだろう。
昔なら、簡単だったのだが、この年になると、どうすればいいのか…全く分からない。
発破をかけるような言葉を投げかけ、背中を叩けばそれでよかった。
だが、今それをしようものなら、不敬罪に問われかねない。
昔だって敬うべき存在だったのだから、その行動には問題があったのかもしれない。だが、あの時自分も何だかんだで子供だったから、 出来た事で。
今では、どうあっても出来そうにない。
身分の壁を、強く意識してしまった今では――――――…。

だけれど、臣下という枠の中で出来るだけの慰めを。
固く引き結んだ唇を少しだけ浮かせて、ジェイドは気付いたら、殿下、と声をかけていたのだ。

「皇帝陛下のご命令は、殿下にとって…意に沿わないものと思います。」

「―――――ジェイド?」

唐突に何事かを言い出したジェイドを、ピオニーは目を丸くして見つめる。
その声で我に返ったが、もう言い出してしまったから、と、彼は意を決したように真っ直ぐにピオニーを見つめ返した。

「ですが、殿下は殿下の成したいと願うものに向かって下さい。私もできる限り、力添えいたします」

彼が戦争を良しとしない立場である事は理解していた。
愚鈍な現皇帝陛下にはそうと分からぬようにしているが、その実、誰よりも血が流れるのを嫌うピオニー。
そんな優しい彼が、今回の視察を快く引き受けた訳ではないことだって、ジェイドにはよく分かっていた。
だから…だからこそ、視察とはいえ、出来れば彼が願う方向に向かうように、思うままに行動して欲しいと思うのだ。

その気持ちをそのまま伝えたら、ようやくピオニーの口元が綻んでいって。
そんな姿を見て、ひどく安心した自分自身に気付かないフリをして、ジェイドは窓へと視線を移動させた。



















小さな、だけれどもこの国の食糧事情において重要な地位を占める村、エンゲーブ。
その村へと到着し、馬車から降りると、家畜の賑やかな鳴き声と活気のある村人の声とが混ざって聞こえてきた。

「いいとこだな」

「密偵も隠れようがないくらいに、住民は少ないですしね」

「ジェイド…」

近所の住民の顔をしっかと覚えているであろうこの村では、よそ者は隠れようもない。
それを思ってそのまま口にした所、ピオニーに困った風に(たしな)められた。
思わず口にした台詞なだけに失言とは気付かず、その場はしおらしく「申し訳ありませんでした」と呟くが、内心では、彼は少し動揺していた。

既に捨て去った筈の「親友」であった頃の声の調子に、今の呼びかけがひどく似ていたのだ。
何かにつけて発言も挙動も極端であった自分を諌めた、優しい声。
唐突に、記憶の中の幼かったピオニーと今の彼とが重なって、ジェイドの胸のうちに僅かな乱れが生じる。

もう、二度と彼を親友として慕う事はしないと、自らを律したというのに――――――…
今更になって、またあの頃と同じような関係に戻りたいと願ってしまっている自分がいる。
こんな馬鹿げた願いを本気にしてしまうから、どうかそんな声で名を呼ばないで欲しい。

感情の波を必死に抑えながら、ジェイドは無言でピオニーの前を先導して歩く。
僅かに左側に立っているその理由は、万が一、ありえないけれど襲撃があった時に彼の盾となる為だ。
他の護衛たちは、それぞれ背後や左右に立ち、ともかくピオニーに危害が及ばないよう、ジェイドと同様に周囲に目を光らせている。

現時点で殺気も害意も何も感じられないから、本当にこの村には危険はないのだろう。
この村の有力者らしい人物の住む家を目指して歩きながら、ジェイドは少しだけ肩の力を抜く事にした。
そうして、今まで目を向けていなかったエンゲーブの風景へと視線を向ける。
殆ど緑といえば街路樹で、建物の殆どが石造りで形成されているグランコクマとは全く違う、木造の家と作物が実る豊かな畑が広がっていて、 とてものどかな光景だ。
ぎぃぎぃと軋んだ音を立てながら回る水車、その傍では鶏が忙しなく餌を啄ばみ、舗装されていない道ではのんびりと犬が歩いている。
さらさらと水路を流れていく水の音は、仕事やそのほかの事で忙しく動き回っている自分を、落ち着けてくれるような気がした。

―――――ぶぅ。

…と、少し和んでいたジェイドの耳に、濁った鳴き声が聞こえてきた。
何の声なのか、と思わず歩が緩んでしまい、それに気付いたピオニーが不思議そうに「どうした」と声をかけてくる。

「……いえ」

「何か探してるみたいな顔して『何もない』って言われてもなぁ―――――…ん?」

ジェイドの視線の先を探りながら呟き、すぐに彼は一点に目を留めた。
それは―――…あまり広いとはいえない、柵だった。
どうしたのか、と問う前にピオニーはそこへと近付いていき、おお、と嬉声を上げる。

「ブウサギだな…随分可愛がられていると見た」

「…ブウサギ…」

「お前、もしかしてこいつらの鳴き声が聞こえて止まったのか?耳いいなぁ」

前から生で見てみたいとは思ってたんだ、と、なぜか嬉しそうにピオニーは言った。
可愛い可愛いとしきりに喜んでいる彼をよそに、ジェイドは困惑した眼差しをブウサギへと向ける。

食料として店頭に肉が並んでいるのは見たことがあるが、生物として見たのは、実はこれが初めての事だった。

ブィー

「お!なんだこいつ、人懐っこいな」

「でっ殿下、服が汚れてしまいます!」

「構うな構うな――――…ああ、ここの主人か?ちょっと柵の中に入ってもいいかな」

護衛の一人が慌てて制止するも、ピオニーは聞く耳持たず、何事かと様子を見にやってきたらしい主人に柵の中に入っても良いかと尋ねる 始末。
それなりに聞き分けの良い男になったのかと思いきや、我が道を行く所は変わっていないらしい。
ブウサギをじっと観察した状態のまま、ジェイドは場違いな分析をした。
何せ、今のジェイドは目の前の初めて見る生物に集中してしまっているのだ。
同僚達がピオニーを止めてくれといわんばかりに救いを求める視線を送っても、気付けないくらいに。

土色と血色の良いピンクとを混ぜ合わせたら、丁度こんな色になるのだろう―――ブウサギという生き物は、何処となく和む色合いの持ち主 であった。
あの肉の形状では知りえなかった事実に、どういう訳か小さな感動を覚えたジェイドは、ピオニーに倣い柵へとそっと近付いて行く。
この時ジェイドは、既に自分とピオニーとのぎこちない仲についてはすっかり頭から抜けてしまっていた。

ブゥ、ブゥ

「………ふむ。」

母ブウサギだろうか、やけに乳の垂れたブウサギがこちらへとやって来る。
手こそ伸ばさないが、相当に近い距離でブウサギを見つめる死霊使いの姿は、それなりに彼に近しい護衛の面々から見ても、かなり異質な 光景だった。
ピオニーのように撫でるでもなく、可愛い、と声をあげるでもなく。
ただ突っ立った状態のまま母ブウサギと見詰め合うその姿は、まさしく「異様」の一言に尽きる。

「た……大尉?」

「ん?どうしました」

耐えかねた護衛の一人が声をかけると、何事もなかったかのように振り返る。
だが、意識は完全にブウサギの方に向いてしまっていて、そのまま黙っているとまたブウサギへと視線を向けてしまう。
もはや家畜と一体となって戯れている次期皇帝候補の男以上に、信じられない姿だった。

「お前らも入って来い!赤ん坊がいるぞ」

子どものようにはしゃいだ声が聞こえたことで、護衛達はハッとなって本来の任務を思い出した。
ブウサギに目を奪われている(ように周囲からは見える)ジェイドに気を取られてしまっていたが、本来はピオニー殿下の護衛が任務であり、 彼から目を離すだなんて言語道断な話である。
しまった、と自らを叱咤しながら、しかし家畜独特の匂いがする柵の中に入ることを躊躇う彼らの前で、マルクトが誇る死霊使いが、 更に信じられない行動を起こした。

ひらり、と。
まるで当然のように柵を飛び越え、歓迎するブウサギの合間を縫ってすたすたとピオニーの元へ歩いて行くではないか―――――…。

将来有望である軍将校と、次期皇帝が、揃って家畜の柵の中にいる。
その光景に、護衛達は言葉も失って立ち尽くすしかなかった。









「なんだ、来たのはジェイドだけか……まぁいい。ほら、ここだ」

固まったまま微動だにしない他の護衛に苦笑しながら、ピオニーは唯一やって来たジェイドに子ブウサギのひしめく一角を示してやった。
かくいう彼自身も、まさかジェイドがこんなにあっさり柵の中に入ってくるとは思わなかったのでひどく驚いたが、それは表には 出さないようにして。

ピオニーの指を視線で辿りながら、ジェイドは奥まった一角を見てはたと動きを止めた。

10匹はいるだろうか―――――大人のブウサギよりも高めの鳴き声を上げながら、生まれて間もないブウサギがひしめき合っていたのだ。
触ると柔らかそうな耳、つぶらな瞳。
それらはピオニーにとっては至上の光景だったのだが……ジェイドはどうなのだろう。
考えもなしに呼びつけてしまった事が今更気になり始めて、ピオニーはこっそりとジェイドの顔色を窺った。

「――――――…!」

見た瞬間、何か見間違ったのかもしれないと思って慌てて目を逸らし、またジェイドを見てみたが、変わりない。

自分は今、かつてないほど珍しい光景を目にしているらしい――――――…。

信じられない表情を見てしまったピオニーは、狼狽を悟られぬよう、自分も子ブウサギを見るフリをしながら服の端を強く掴んで誤魔化した。

本当に僅かだが、ジェイドが笑っているのだ。
目元が少しだけ和らいでいる、ただそれだけなのだが、幼少よりジェイドを知る者にとって、それは晴天の霹靂といっても過言ではない位珍しい表情だった。
それは大人になり、愛想笑いばかりが上手くなった現在でも変わりない。
作り物の笑顔ではない、本心からの感情を滲ませているその表情は、実はピオニーはグランコクマでは初めて目にしたものだったのだ。

おまえ…ブウサギが好きだったのか…?

ものすごく聞きたくなったが、しかしそれを尋ねれば、彼は瞬時にその表情を殺してしまうだろう。
それがとてつもなく勿体無い事のように感じられたピオニーは、知らないフリを決め込む事にした。
そして、この表情を出来るだけ多く見る為にはどうしたらいいか、必死になって考え始めた。



















■                            ■




















今回の視察はつつがなく終了し、予定通り宮殿へと帰って来たピオニーを見て、アスランはおや、と足を止めた。

(スキップでもし始めそうだ…)

無礼にもそんな事を考えながら、アスランは彼の動向をぼんやりと観察していた。
彼の後ろには、今回の護衛の筆頭であったジェイドの姿があり、ピオニーは今回の視察についてなのだろうか、実に楽しそうにジェイドに話を振っている。
決してジェイドの方はにこやかに返している訳ではないのだが…それでも彼は上機嫌なままで。









「反戦派であるピオニー様らしいかわし方でございましたよ」

「…………?」

護衛の一人に知り合いが居たので、仕事の合間にエンゲーブで何があったのかを尋ねたら、にこやかに笑いながら彼はこう答えた。

「偶然見かけたブウサギが、殿下はひどくお気に召したようで―――――…視察の本来の目的よりも、見かけた子ブウサギを何匹か譲って くれ、という交渉に大分時間を割かれたのですよ」

「ブウサギ…?」

「ええ、ブウサギです。密偵の一人や二人は見ていたでしょうが…あれだけ自然にブウサギばかりに目がいっている所を見れば、キムラスカ も、よもやマルクトが戦争を起こそうなどとは思いもしないでしょう」

交渉の結果、何とか一匹を譲っていただけたようですよ、と、なぜか楽しそうに語る知り合いに、アスランは何と反応して良いか分からなかった。





















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+反省+
シリアスかと思いきやアホ話でした☆
ブウサギを飼い始めた理由=ジェイドだったらいいなぁ〜と妄想。
ジェイドの表情見たさにブウサギを手元に置く陛下…うふふ!
ジェイドはブウサギが好きだったらいいなぁ…と思うのです。無表情だし絶対口には出さないんだけど、実は…みたいな感じで。

2006.6.2