[泣かすのなら俺が貰う] ――――――いつも仕事は綺麗に片付けてから本部を後にする旦那にしては珍しく、僅かながらやりかけの仕事が机の上に残ったままだった。 「………おっかしいな。いっつもきっちり片付けてから帰るのに」 せっかく聞きたい事があったのに。 主が不在の執務室で、俺はどうしたものかと頭を抱えた。 事の始まりは、終業も近い夕刻近くの廊下での出来事だった。 俺はそこを通り過ぎた時、メイドたちの会話―――陛下に関する事―――が聞こえてしまって、その内容に強く興味を惹かれた。 その真偽について、本人である陛下に聞くだなんて恐れ多いこともできず、それならば親友にして懐刀であるジェイドに確認しようと思い立ち、執務室を訪れたのだ。 しかし、いつも終業時間まで…下手をしたら泊まっていたりする仕事の鬼が、どういう訳か今日はいない。 これではいよいよ、気になってきてしまうではないか。 「さて…あと居そうなのは何処だったかな」 意地でも探し出して、噂を確かめたい。 まさしく国の今後に関わる話題だし、あの陛下が――――…と思うと、好奇心は収まりそうになかった。 失礼かと思ったが、現在ジェイドが1人で住んでいるというカーティスの屋敷も訪ねてみた。 だがそこにもジェイドの姿はなく、しかもまだ帰ってすらいないという事で。 仕事熱心なあいつの事だから、やっぱりまだいるのか――――そう思って軍本部へ戻って、地下の艦の格納庫や作戦会議室、果ては少将の執務室なんかにも行ってみたけれど、その何処にもジェイドの姿はなかった。 「〜〜〜あー、ほんと何処に居るんだよ、あのおっさん…」 俺の呟きが聞こえてしまったのだろう、苦笑交じりに俺の様子を見守っていたフリングス少将が、ああ、と思い出したように声をあげた。 「大佐でしたら、もしかすると酒場かもしれませんよ」 「酒場…?」 「ええ。今日はローレライの日ですし…もしいなくとも、マスターが心当たりを教えてくれると思いますよ?」 にこ、と、旦那よりはよっぽど好感が持てそうな爽やかな微笑みを浮かべてそう教えてくれた少将に感謝を伝えると、俺は仕事中に訪れた 非礼も詫びて、足早に部屋を後にした。 「うーん………」 とりあえず、言われたとおりに港の前の酒場へとやって来てみた。 ケセドニアみたいに女の子が多いのかと思ったら、やはりそこは首都、なかなかに客層は幅広く、港のすぐ前だからなのか、男性や軍人が目立っている。 週末という日付柄、仕事が終わってすぐ、という感じの男性ばかりがテーブルを囲んで談笑している中、俺は下のフロアにジェイドの姿がないのを確認して、上へと続く階段を上る。 所々に譜術で水を循環させているオブジェがあるこの酒場は、とても洒落っ気があって、ジェイドが好きそうな雰囲気だ。 今度から俺も通おうかな、等と考えながら、階段を上りきった所で室内をざっと見渡してみる。 「―――――お、ほんとにいた」 カウンター席の一番奥、グラスを優雅に傾ける青い軍服姿の男を見つけて、俺はさっとその隣へと腰掛けた。 鬱陶しそうに視線を流してきた旦那は、それが俺であることを悟ると、珍しいものでも見るかのような目をする。 少しばかり迷惑そうな目をしたような気もしたが―――まぁ、細かいことは気にしないことにしよう。 「よ」 「……珍しいですね、1人でここに来たんですか?」 注文を尋ねてきたバーテンに、隣のコイツと同じものをと頼み、俺はジェイドへと向き直る。 髪の色よりも濃い、琥珀色をした液体――――恐らくはそれなりに強いものだろう―――を揺らしてこちらを見るジェイドの顔は、普段と寸分も変わりない。 酒に強いからこそ、こうして適当な相手もなく1人で飲む癖がついてしまったのだろう、その所作は妙に様になっているし、堂々としている。 「まぁな。―――――…ああ、ありがとう」 すぐに注文した酒を持ってきてくれたバーテンに礼を述べ、彼が去っていったのを目の端で確認してから、俺は上半身をジェイドへと向け、身を寄せた。 「…………な、宮殿でメイドたちが言っていた噂なんだけど、アレは本当なのか?」 「噂?――――――…ああ、あれですか」 俺の脈絡の無い言い回しでもジェイドはすぐに分かったのだろう、数秒の間を置いて得心してみせる。 興味津々といわんばかりの俺が、相当馬鹿っぽく見えているのだろうか? ジェイドは溜息を付いた。 「なんだよ、アレが―――――陛下のご婚約が本当なら、凄いめでたい事じゃないか。気になるのは当然だろう?」 実際は、あのブウサギ以外に熱い眼差しを送っているのを見たことのない陛下が婚約を決心するような相手、というのがどんな人物なのか、気になって仕方がないだけだ。 きっとそんな内心を分かった上で、ジェイドは呆れているのだろう。 だけど、ジェイドだって、ブウサギにばかり構っていないでさっさと結婚しろ、とか言ってたんだから――――…願ったり叶ったりじゃないか。 「で、本当なのか?」 興味がないとでもいう風に、流れるような動作でグラスに口をつけるジェイドに尚も詰め寄る。 だけど、何だか今日のジェイドにはいつものような饒舌さがなくて。 黙ったまま、やけにゆっくりとグラスを置いて、それをじっと見つめていた。 そして、俺は所在なくそんなジェイドの目を見ながら、答えを待つ。 いつも正面から見る紅い瞳を横から見る、というのは、なかなか新鮮な印象を与えるものだ。 レンズを介さず、宵月夜に照らされた白い肌とのコントラストでより映えて見える瞳は、男ながらに綺麗で。 そのせいでじっと見蕩れていたから、その瞳が少しだけ揺らいだのが分かった。 「――――――本当ですよ」 本当か!それはめでたいな――――――!! 喜色も露にそう叫ぼうとした俺は、しかしそれをすんでの所でそれを飲み込んだ。 どうも、旦那の様子がおかしい。 深く息を吐いて気持ちを鎮めながら、改めてジェイドを見て――――――…絶句する。 こんなに儚い表情をするような男だったか…? 声をかけるのも忘れてしまうくらい、今のジェイドは別人だった。 いや、表面上はいつも通り、流れるような――――悪く言えば機械的な所作で酒を飲み続けているのだが、その瞳は驚く程に覇気が…いつもの力強さがない。 その上、見据えられたなら、それこそ凍ってしまいそうな位に鋭い筈の、あの紅の瞳が…色素からくる要因ではなく、何処となく赤くなっている。 そして、何処か潤んでいるようにも見えた。 変化は……ただ、それだけ。 だが、俺にとっては青天の霹靂――――――それこそ、ファブレの屋敷でルークの部屋に雨漏りがする位、ありえない出来事だった。 「……………ジェイド?」 思わず、名前を呼んでいた。 その力を失った瞳が、また元の光を取り戻して、何でもない風に俺を映すことを願って。 だけど、俺の方を振り向いた旦那の顔は、横顔だけの時以上に衝撃的だった。 「正直、驚きましたよ。口では結婚しろと言ってきましたが、結婚はしないものだと思っていましたから」 そう言って、ジェイドはふっと、小さく笑った。 でも…それは決して、いつもの余裕ありげな、何処か裏のありそうな笑みじゃない。 疲れ切って、ともかく誰かの助けを求めているような―――――…普段の旦那からはかけ離れた、頼りない笑み。 それこそ、思わず抱きしめてやりたくなるような。 「――――――おかしいですね。婚約されたと昨夜真っ先に報告されて、親友として、臣下として、喜ぶべきなのに」 「……ジェイド、お前」 「不思議な事に、複雑な心境です。まるで―――――」 言葉を続けようとしたジェイドの口を、俺は気が付いたら手で塞いでいた。 血を吐くように、自らを傷つける言葉を紡ぐ姿が耐えられなかったから。 俺の咄嗟の行動にジェイドは目を丸くしていたけれど――――…何処か安堵しているように見えた。 目元に溜まってしまっていた涙を、手をどかす時にさりげなく拭い、俺は「もう帰ろう」とジェイドの腕を引っ張る。 好奇心からこいつを探し出して、真偽の程を聞き出すという計画だったけど、根掘り葉掘り聞けるような状態じゃないし、何よりジェイドのこの状態の方がよっぽど気がかりで、それどころじゃなくなっていた。 顔色は全く変わっていないものの、呼気からして、ジェイドはいつもよりも多く飲んでいる。 軍将校ともあろう男が、酒場で飲み過ぎてぶっ倒れるだなんて醜聞もいい所だったし、世話好きの気性が放っておくなと訴えていた。 それ以外の何かもあったけれど、この際それには知らないフリをして。 そんな事からきた行動だったのだが――――何故かジェイドは立ち上がらない。 どうしたのだろうと顔色を窺うと、何処か拗ねた風な様子で、そっぽを向いていた。 「だ、旦那?あんた結構飲んでんだろう、もうそろそろ終わらせとかないと」 「強いので問題はありません。もう少し飲んでいたいので……先に帰って構いませんよ」 確かに顔色は変わっていないのだが、ここまで強情な所を見ると、やっぱり少し酒量が過ぎているようだ。 「とことん飲むんなら、ぶっ倒れても平気な場所の方が安心だろ?」 「生憎と、自宅にはストックしておかない主義ですので」 「――――――じゃあ、俺の家に来い。」 気が付いたら、家に誘っていた。 こんな旦那を1人放っておくなんて出来なかったし、何かを堪えている風な瞳が、1人にしてくれるなと切に訴えているような気がして、殆ど無意識の内に出た台詞だった。 その提案にジェイドが頷いたのを確認してから再び腕を引っ張れば、今度こそ抵抗せずにその体は立ち上がってくれた。 人目のない場所に行くと、気が抜けたのだろうか、目に見える程に酒量と比例して顔が赤くなっていくジェイドを、俺は止めもせずに眺めていた。 ジェイドは陛下の事が好きなのかもしれない、と――――半ば冗談だと思いながら二人を見てきた俺は、先ほどの反応で、その憶測が真実であった事を悟った。 何かと口をついて出る事の多かったのが陛下の話題で、しかも聞きようによっては惚気のようにも聞こえてきた言葉さえあったから。 だが、陛下も陛下で、何かにつけてジェイドを構う節があったし、その贔屓っぷりは他の臣下とは比べようもなかった。 幼馴染だから、の一言では片付けられない何かがこの二人にはあると確信していただけに、今回のこの事態は、やはり俺にとっても信じがたいものだったのかもしれない。 好奇心ではなく、信じられないことからくる驚愕と疑念だったのだ。きっと。 「………おい、ジェイド。大丈夫か?」 「ええ」 動作も口調も変わりないが、目が据わってきている。 これは、そろそろやばいんじゃないだろうか…? ジェイドは気づいていないようだったが、帰る時にバーテンが気遣わしげな視線を送っていたあたり、かなり飲んでいる筈だし。 よし、そろそろ止めないと――――――そう思って席を立とうとしたら、ジェイドの細い腕が、俺の服を掴んで引き止めた。 「――――――どこへ、行くんですか?」 決して、振りほどけないような強さではない。 それこそ、ちょっと動けば外せそうな程度の、極々弱い力だ。 しかし、俺はそこから動けなかった。 酒で焦点が定まらなくなったらしい一対の真紅が、縋るように俺を見つめている――――その目を見てしまったら、もう。 「いや、別に、何処にも」 「一人にするんですか?私を―――――」 するり、と腕を取られて、気が付いたら引き倒されていた。 ソファに座っていたジェイドを、丁度押し倒した風にも見える体勢。 酒のせいなのか感情からくるものなのか分からないが、目は潤んでいて、そしてその目をガラス一枚で隔てていたもの…眼鏡を、ジェイドは自ら取り去って。 「ジェイド……!?…ッ」 唇を寄せ、ちゅ、と軽い音を立てて笑う姿は、死霊使いと恐れられるものとも、執務室で仕事に追われる軍人のものとも、懐刀と呼ばれ、あの男の傍らに悠然と立つものとも違っていた。 それは、ただただ誰かの慰めを求めている、かつてないほどに弱った姿。 ―――――それでも最後のプライドが残っているのだろう、表面的な顔は挑戦的なものだった。 だが、それでも目だけが内面を繕いきれずにいて、その様が俺を動揺させる。 これは、明らかな誘いの眼差し。 「ひとりに……、しないで下さい」 その一言が引き金になって、俺は気が付いたら自らジェイドに覆い被さっていた。 死んだように眠ったままのジェイドを屋敷に残して、俺はいつも通りに陛下の所へ仕事に向かった。 ジェイドは勿論仕事に出られるような精神状態でも体調でもなかったから、休む事をフリングス少将に伝えてから宮殿に向かったが、重厚な扉を開けたらすぐに、陛下の後姿が目に入った。 そのまま私室へと入って行く姿を見て、俺は段々と鼓動が早くなっていく。 正直、あの人を見て落ち着いていられるかはわからなかった。 だけど行かない訳にも行かず、少し間を置いて、控えめにノックをした。 「ジェイド!?――――――…なんだ、ガイラルディアか」 「は、はぁ」 途端に勢い良く、メイドではなく部屋の主自身が扉を開けたものだから、俺は思わず呆けた返事をしてしまった。 勿論、開口一番のその台詞が引っかからなかった訳ではないんだが。 「驚かせて悪かったな、入っていいぞ」 何処か気落ちした様子で部屋へと招き入れてくれた陛下に一礼して、部屋の奥にある道具入れからリードを取り出し、ブウサギにそれをつけていく。 しかし、頭の中は先ほどの一言が引っかかって、仕方がなかった。 ジェイドじゃないかと陛下は期待していたようで、俺だと分かった途端、溜息をついた。 たぶん、あの後姿だって、もしかするとジェイドを探して回った帰りだったのかもしれない。 それはすなわち、ジェイドが昨日一切この部屋を訪れなかったという事で。 それくらい、毎日のようにこの部屋を訪れていて、昨日は訪れなかった。 この事実が示すものは、一目瞭然だった。 ぼんやりと外を眺めて仕事に取り掛かる気配を見せない陛下を横目に眺めながら、俺はふと口を開く。 それが地雷になることは分かっていたが、言わずにはいられなかった。 「―――――――ジェイド、ショックを受けてるみたいでしたよ」 「?」 「昨日、………泣いてました」 ソファで勢いのまま抱いた時のジェイドの姿を思い出しながら、陛下には背を向けたまま、俺は続ける。 あんなにボロボロのジェイドは初めて見たし、もう二度と見たくないとも思った。 隙なんて見つからないんじゃないかとさえ思っていたあいつは、殻を破ってみたらとても脆い存在だった。 最中も何かを思い出すように遠い目をしたかと思うと、目元が潤んできて――――――見ていられなかった俺は、誤魔化すように何度も目元にキスをしてやった。 考える隙を与えないようにと、疲れ果てるまで激しく抱いた。 そのお陰だろう、明け方には何とか夢も見ない位に深く寝入ってくれて、それでようやく俺は屋敷を出ることができた。 でも、意識を失う直前まで、ジェイドは1人になる事を恐れていたから―――――出来れば、散歩を早く終わらせて、一度屋敷に帰りたい。 だけど、その前に、どうしても陛下には一言伝えたかった。 扉を閉める直前、俺はドアを片手で押さえたまま、陛下へと向き直った。 「陛下は婚約されるから関係ないと思いますけど。ジェイドは俺が貰いますよ」 「―――――ッ!?」 絶句した陛下の顔を内心愉快に思いながら、俺は手早く扉を閉めた。 散歩から帰った時、どんな言葉を返されるのか楽しみだ――――そんな事を考えながら。 +反省+ |