[うさぎと仕事] ぺたん。 わたしのすぐ傍で、紙と朱肉とがくっつく音がきこえてくる。 ある程度の時間が経過すると、ぺらりという紙を捲る音がして、たんたん、と、朱肉をつける音がして、それからまたぺたん、という音がきこえてくる。 それは、わたしの飼い主である「へいか」が、書類を確認して、承認印を押している音だった。 そして、どうしてそれがわたしのすぐ傍で聞こえるのかというと、それは、わたしがへいかのしごと机の上に乗っているからだ。 「あー、ジェイド。これも頼む」 ぺら、と、わたしの前に小さな字がたくさん並んだ紙が差し出されて、わたしはためらいもなくそれを手に取る。 へいかが持つ分には片手で足りるような大きさの書類でも、わたしにとっては両手でようやく持つことができる、とても大きなものだ。 なので、両手で受け取って、それからへいかの机の上――――へいかが判押しに利用しているすぺーすよりも前の方に広げる。 へいかが今わたしに渡したのは、軍部からあがってきた報告書の一枚だ。 たわむれのつもりだったのだろう、めいどの一人から文字の読み書きを習ったわたしは、字こそあまり上手くは書けないけれど、字や文章の識別、文の読み取りはとてもよくできるようになったらしい。 それをめいどから聞いたへいかが、ある日わたし机に乗せてきて、書類の誤字脱字さがしと文章の校正をやってくれ、と頼んできたのだ。 『…………』 すぐに誤字を発見したわたしは、「ぺん」を取ってそこに赤いしるしをつける。 へいかがわたし用に、と用意してくれたぺんは、こども用で小さいのでそれなりに扱いやすいのだけれど、手を人間のように器用に扱えないわたしにとっては、きれいなしるしさえつけることができない。 案の定、妙なかたちに歪んだまる印で誤字を囲うことになり、わたしは少し不満だった。 でも、どうがんばってもわたしにはきれいな字やしるしを書けないのだから、妥協するしかない。 へいかにはきこえないようにため息をついて、わたしはなおもぺんを動かし続けた。 …それにしても、この報告書は「みす」が多い。 4行か5行もしないうちに誤字や脱字、果ては字を習い始めてそれほど経っていないわたしにも指摘できるくらいの、妙な言い回しがあったりして、それはしるしをつけるのさえおっくうになりそうな量にまでのぼった。 「――――ジェイド、大丈夫か?」 見かねたへいかが、わたしが訂正指示を記入している書類をのぞきこんでくる。 へいかも、わたしが赤く囲った部分を見てこの報告書の不備の多さが分かってしまったのだろう、「悪いな」と苦笑して、またもとのしごとへと戻っていった。 へいかが自分のしごとに戻ったのにほっとしながら、わたしはまた書類へと視線を戻した。 報告書という書類の性質上、本当に文字が多くて―――――今更ながら、わたしはこれを全部訂正しなければいけないのかと、嫌な気分になる。 それに、どういう訳なのか―――だんだんとわたしは頭がぼんやりとしてきて、字がぼやけ始めてきて。 「!…ジェイド?」 気づいたら、へいかの机にまで、赤い訂正線が延びてしまっていた。 ペンを滑らせたのだろうけど、しかしわたしには滑らせるまでの経緯が記憶にない。 自分でもよくわからなくて、わたしは自分の手とへいかとを見比べて、首をかしげる。 ……と、はかったかのようなたいみんぐで、あたらしいわたしの世話係が入ってきた。 「失礼しますよ、陛下」 「――――おぉ、どうした?ガイラルディア」 かれの名前はがいらるでぃあ、といって、がるでぃおすという貴族の家の嫡子なのだそうだ。 どういう経緯なのかは知らないけれど、ある日を境にわたしの世話係になったおとこだ。 でも、へいかほどではないけれど、彼の世話ぶりはなかなかに丁寧で、ぶらっしんぐも、他の手入れも文句はない。 最初、わたしを見た時になぜか引きつった顔をしたのが気になったけれど、今ではそこそこに気に入っている人間のひとりだった。 その、がいらるでぃあ―――長たらしい名前なので、がいと呼ぶことにする―――がきたということは。 わたしは自分でも無意識のうちに、渋面になってしまっていた。 「分かっていらっしゃるでしょう。もうジェイドは昼寝の時間を過ぎていますよ?過剰労働です」 言って、がいはぺんを持ったままのわたしをひょい、と抱き上げて、それからすぐに、ぺんを取り上げて机の上に置いてしまう。 勝手にとらないでほしい。 わたしは、まだへいかのしごとを手伝うだけの余力はあるのだから。 そうしてわたしは怒った顔をしてみせるのだけれど、がいは「おいおい、そんな顔で怒ってるつもりか?」と、笑っている。 まったく、失礼な話だ。 わたしは本気で怒っているのに。 へいかのしごとを少しでもはかどらせないと、国がこまるのに、それでもがいはわたしをとめるというのか。 ……だけど、私の思いとは裏腹に、どうしてだか体は自由に動かない。 「ほら、もう大分まぶたが落ちてます。可哀想じゃないですか」 「…しかしなぁ、こいつが校正した方が仕事もはかどるんだ」 「――――そんなこと言って、単に離れたくないだけでしょう?単に隣の部屋で何時間か寝かせるだけなんですから、我慢してください」 いつのまにか、声が遠くに聞こえるようになっている。 なにか秘密の話でもしているのだろうか? …そう考えたのが最後で、わたしの意識はおちたようだった。 苦笑して、ガイはジェイドの負担にならないような姿勢に抱えなおした。 意識が落ちる寸前でも、あまり寝顔は見せたくないという意識でも働いたのだろうか――――ガイの胸で顔を隠すような形で、ジェイドは小さな寝息をたてている。 引き取った時よりは少しばかり大きくなったこのうさぎだが、成長は遅々として進まない。 おそらくは、これが殆ど大人サイズなのだろう。 それでも態度ばかりが「あの」ジェイドに似てくるうさぎが面白く、またかわいいと思い始めていたピオニーは、字を覚えたというジェイドに簡単な仕事を頼むようになっていた。 単に、じっと仕事を眺められているよりはましだと思ったのと、どれだけの仕事ができるのか試してみたかったというのとの半々だったが、このうさぎは予想以上に有能なうさぎだった。 今ではすっかり、仕事の手伝いに欠かせない存在になっていたものだから――――このジェイドがまだ子供で、あのジェイドのように化け物のように一睡もせずに働くことができるわけではないのだ、という事を失念してしまっていたようだ。 「むずがって起きてきても、きちんと寝かし付けてくださいよ?」 「ああ、分かってる分かってる。」 頼りすぎた、と反省しながら、ピオニーは一見ぞんざいな風に手を振る。 その様子を見て一応は納得してくれたのだろう、ガイは一度だけ振り返ったが、後はジェイドを起こさないようにゆっくりとした動作で隣室へと入って行き、入れ違いのようにブウサギたちを連れて部屋を後にした。 +反省+ |