[幸せは罪の匂い] 現皇帝の座する謁見の間で、私は彼が目を白黒させているのにも頓着することなく、研究の中断を告げた。 不治の―――――もってあと十年あるかないかという、病に冒された体である皇帝には堪える言葉だったらしい。 かつての威厳などなかったかのように、僅かだが懇願するような視線をよこしてきた。 ――――――分かっていた。 彼がフォミクリー研究に、望みをかけていたこと。 皇帝は、自らの複製を作らせて記憶の移植をし、永らえるという望みを、この研究にかけていた。 「残念ながら、陛下」 私には人を気遣うだとか、権力者を(表面的にでも)敬うだとか、そういった心遣いが存在しない。 大抵思ったままを口にして、それに勝手に傷ついた他人は、勝手に被害者のような顔をして去っていく。 だが事実はそれでも変わらないのだから、私はやはりこの態度を変えはしない。 それは皇帝の前でも同じ事だった。 「――――――理論を突き詰めている途中で、あなたの望むような研究結果は得られない、と。そう確信したからこそ、放棄しました」 「…………!」 「報告は以上です」 いつもこれみよがしに軍服の上から白衣を纏ったまま謁見の間を訪れていたが、今日私は白衣を脱いだ状態―――――つまりはきちんとした『軍人』としての姿でやってきていた。 それはひとえに、二度と研究には着手しない事、もうこれからは軍に所属するだけの研究者としてではなく、ただの軍人として生きて行くという事の決意を、あの皇帝にみせる為だった。 「…………お前の決意は、理解した」 余命幾ばくもないとはいえ、彼も曲りなりに施政者だ。 ここで表立って引きとめはしないのは分かっていたので、特にどうという思いもなく、皇帝の言葉を聞き流す。 「下がってよい。…今まで、ご苦労だった」 僅かに納得していない風な声音だったが、たとえ誰かが残していた資料を基に研究を続けたとしても、私やサフィールがいない限りは、大した研究成果は出ないと確信できたので、私が抜けることができたとなれば、もうフォミクリーは絶えたも同然。 諦め切れていないあの視線が気になりはしたが、もうこれ以上この研究が害をなす事はないのだと、私は謁見の扉を過ぎてからようやく本当の安堵を得ることができた。 だが、ただ研究をしていた今までより、これからの方がずっと大変になるのは分かっていたので、その安堵で気を抜かないように、一つ息をついてから、いつもの表情を作る。 譜術士が多いとはいえ、軍に在籍し続ける為には体力や武術なども必要だ。 これからは頭ではなく体を使わなければならない、と覚悟を決めなければ、軍にい続ける事はできない。 養家が軍門とはいえ、未だに軍にこだわる必要性はないのだが――――――…惰性のようなもので、この年になってから転職するなどという選択肢が浮かばなかった。 結果として苦難が待っていそうだとも思ったが、それでも転職という道は思い浮かばなかったのだ。 …おそらくは、仕事に対して希望や理想というものが存在しないからだろう、と適当にあたりをつけて、それについての思考は中断した。 これから本部勤務の士官から、仕事の説明がある。 まずは新しい仕事に慣れなければ。 改めて気を引き締めると、宮殿の出口を目指して足を早めた。 殆どホド島や辺境の研究所で研究に没頭していた為に、人が沢山いる街を出歩くのは、実は幼少を過ごしたケテルブルク以来のことだった。 宮殿前の広場にも人が大勢出歩いているのを見て、思わず私は目を細める。 海の上、譜術によって半ば浮いているこの水の帝都―――――グランコクマは、このオールドランドでも随一の美しさを誇る街だ。 水の都の名に相応しく、宮殿前から一般街まで、どこでも水路や噴水による水音が聞こえてきて、どこか涼やかな印象を与える。 勿論、昨今のキムラスカとの戦の影が無い訳ではなかったが、それでもグランコクマで見かける住民は、いずれも今の皇帝を信頼しきっているように見えた。 (…真実を知らない、というのも、幸せなものですね) ほほほ、と優雅な仕草で笑う貴族の女性を横目に眺めながら、私は足早に広場を通り抜けていく。 私は、国民を守るなどという大義名分で軍に入った訳ではないが、私の仕事は民や皇帝の代わりに『敵』と呼称される隣国の人間を殺す事。 それに付随するデスクワークなどもあるだろうが、とりあえず仕事だと割り切れば、さして苦もない仕事だ。 今まで散々実験の為に死体を生産してきたのだから――――――今更だ。 ただ、その死体を活用しないというだけで、やる事は基本的に今までやっていた事から研究を除いただけ。 だからさして今までと変わりはないだろうと言ったら、軍で私を何かと世話してくれたゼーゼマン参謀は、困った風に笑っていた。 …私には、その笑みの意味は分からなかったけれど。 考えながら歩いているうちに、宮殿から程近い、軍本部の前に到着した。 これまで数えるほどしか訪れた事はないが、いつ来ても素っ気無い佇まいで、細やかに装飾の施された宮殿から来ると、その差が顕著に感じられる。 …とはいえ、軍本部に装飾などあっても意味のないものだから、なくて当然なのだろうが。 考え事をして気を紛らわせながら、建物の割に小さい扉をくぐると、すぐに人待ち顔の一人の青年と遭遇した。 「あ―――――」 「…何か?」 「もしかして、カーティス少尉、ですか?」 「?…………はい、そうですが」 これまでずっと『博士』と呼ばれ続けていた事や、カーティスの家に入ってからも研究者仲間からは論文発表時の名であったバルフォアの名で呼ばれていた為に、すぐには反応できなかった。 だが、それが私を指すものであったと数拍の後に理解して、すぐに返事をした。 そういえば――――――初陣以降は目立った活躍をしないようにしていたり、昇進を断ったりしていたから、階位は少尉だった。 研究以外ではあまり目覚しい活躍をしていないだとか、頭だけの軍人に少尉などという階位はやりすぎだという意見も多かったし、事実ジェイドの年齢で少尉という階位は、それなりに目立っている。 途端に周囲の兵士がこちらに集中し始めたのを目の端に捉えながら、私は小さく溜息をついた。 「はじめまして。今回年齢が近いという事で少尉に仕事の説明をする役を任ぜられました、アスラン・フリングス中尉です」 「―――――ジェイド・カーティス少尉です。宜しくお願いします」 人好きのする笑顔を見せた彼―――――フリングス中尉としては、何の算段もなかったのだろう。 それを裏付けるかのような悪意のない笑顔を見て、私は気が抜けたようにもう一つ息をついた。 「仕事について、教えるようなことはほとんど無いですね。もとより、私は少尉よりもデスクワークが苦手な性分ですが…」 少ない窓から差し込む光を反射して、髪が揺らぐたびにきらきらと輝く銀髪をぼんやりと見ていたら、その視線から逃れるように彼は苦笑を浮かべた。 先ほどから簡単に軍務の話を聞いていたのだが、概ね理解していたし、確認という意味でだけ相槌を打っていたら、どうやら既に話す事がなくなってしまったらしい。 元より私とは得意な分野がそもそも異なる、軍人のやる事だ。 私にとってデスクワークの類は、通常の軍人よりもよっぽど楽な仕事だと思えた。 それが伝わってしまったのだろう、フリングス中尉は偉そうな事は言えないですね、と困ったように笑っていた。 ―――――こんな真っ直ぐな人物は、嫌味など言おうものならそれをそのまま真に受けてしまいかねない。 今後気をつけなければ、と自分に言い聞かせてから、仕事以外の話題はないものか、と思考をめぐらせる。 しかし元より会話の不得手な、しかもグランコクマに来て間もなく、軍の情勢もあまり興味がなくて詳しくはない私に、気の利いた話題が提供できる筈もなく、ただ与えられた個室の内装を誤魔化すように眺めるばかり。 そうして無駄に時を過ごしていたら、何かを思い出したのか、中尉はぽん、と手を叩いて口を開いた。 「そういえば、ひとつだけ」 「?」 少し迷ったのだろうか、彼は喋り出してから逡巡すると、再び言葉をつなげる。 「―――――こちらへは、時折王族の方が…その、遊びに、いらっしゃる事があります。その際は速やかに宮殿にお帰りいただくようにしてください」 「…王族の…ですか」 「はい。特に予告もなくいらっしゃるのはピオニー殿下くらいですが」 …という事は、主に問題があるのはピオニーだけなのだろう。 研究所に顔を見せに来るたび、あっちではきちんとしている、と言っていたのは、どうやら嘘だったようだ。 相変わらずの厚顔ぶりと脱走癖に思わず溜息が出そうになるのを耐えながら、私は了解の返事をした。 +反省+ |