[たった一言] ――――――…その一言は、会場内を静まり返らせるには十分過ぎる威力のあるものだった。 それもそうだろう。 懇親の意味合いで開かれた皇帝主催の宴会の場で、あろう事かその皇帝陛下を呼び捨てにする声が聞こえたのだから……。 「………聞いていましたか?ピオニー」 再び聞こえた、不敬罪で投獄されること必至の、低い声音で言われたその呼称。 だがしかし、それを命ずるべき皇帝陛下は、何故か上機嫌にからからと笑っていた。 「聞いていませんね……だからあなたは、廊下に立たされるんですよ。分かっていますか、ほんとに」 「いや〜、あっはっはっは!」 くどくどと、およそ35歳の語るような内容ではない言葉を、もっともらしい顔で呟く死霊使い。 ひたすら、その甘いマスクをだらしなく崩し、壊れたように笑い続ける若き皇帝。 ――――…とどのつまり、宴会の席で出された酒の飲み過ぎで、二人はおかしくなっていた。 普段、底の知れない表情を浮かべたまま、理路整然とものを語る優秀な軍人であるカーティス大佐が。 普段、少々遊び過ぎる所があるものの、決断は迅速で的確…国民に慕われているピオニー9世陛下が。 猛き皇帝とその懐刀―――――そんな二人が、子供のように笑ったり真剣な顔で変なことを呟いているのを見てしまっては、嘆きたくなるというもの。 現に、それを目の前にしてしまった近しい臣下達は、この状況をどう収拾したらいいか、途方に暮れているところだった。 事の発端は、ガイの歓迎会を兼ねて、立食会でもしよう、とピオニーが言い出した事だった。 まだグランコクマにも慣れていない、貴族としての生活にも慣れていない彼の為に、と、彼を知る人間を中心とした、ちょっとしたパーティーをしよう、という事で、仕事が比較的少ない日の夕方を狙ってセッティングされたのが、今日で。 パーティーは、皇帝自らが主催というだけあって、小規模だというのに料理に関しても相当な力の入れようだった。 しかしそれは部屋やテーブルの装飾も含めてあまりに豪華過ぎて、ピオニーが予想していたような軽い立食会というよりは、ディナーパーティーのような様相を呈していた。 『―――――こんだけの料理が揃ったんじゃあ、酒も用意するしかないよな?』 それで色々とやけになったのか、ピオニーはにやりと人の悪い笑みを浮かべ、そんな事をのたまった。 その瞬間、誰もが皇帝の打算だったんじゃないかと思ったのは言うまでもなく。 しかし、彼の言った事に逆らえる者など、勿論この国には存在しない。 そういう理由もあって、半ば自棄になった臣下たちは、思い思いに飲み始めたのだ。 「……だからって、まず自分が真っ先に酔っ払うとは……」 「……………それがピオニー陛下たる所以です」 部屋の中心で、ひたすら笑いながら酒を水のように飲み続けるピオニーを見ながら、呆れたようにガイは呟いていた。 本来ならば彼がこの立食会―――…否、宴会の中心となるべき人物であるのだが、もうとっくに、騒ぐ為の口実に利用されたのだという事は理解していた。 そしてそれに応えたフリングス少将―――彼も、それを当初より予想していた為に、深い深い溜息をついて、ガイと同じ方向を見る。 「いつも授業の邪魔なんです。少しは大人しく席に着いて―――…」 丁度、笑い続けている陛下に新しい小言を付け加えているジェイドを見てしまい、慌てて目を逸らす。 酔っ払いに絡まれては困る、というのもあったが、何だか妙に落ち着かなかったのだ。 いつもよりよく喋るのはともかくとして、普段よりもよく変わる表情や、アルコールのせいなのか、少々潤んだ目元。 その顔で流し目などされたものなら、何か違う感覚に目覚めそうだった。 そうしてふと逸らした視線の先、隣で同じような目…腐った魚のような目をして同じものを見ていたらしいガイと目が合って、フリングスは苦笑を浮かべてしまった。 「…なんだか、珍しいですよね」 「……そう、です、ね……旦那、ジェイドがあそこまで酔っ払ってるのは、初めて見るかもしれません」 「付き合いはそれなりに長いですが、私も初めて見ましたよ。」 でも何だか意外で可愛らしいですよね、と、彼はその笑みにも少しばかりの余裕がある。 そこでようやくガイは、目の前の男が、実の所ジェイドよりも年上の上司であるという事を思い出した。 あまりそういうところは見せないが、このような状況でもそれなりに落ち着いているというのは、やはり大人たる所以だろう。 「いつもの―――あの嫌味な口調とは全然違うなぁ」 「陛下相手だと、もっと凄いんですよ。あれなんて、本当に可愛いものです」 独り言のようなものだったが、どうやら存外に大きな声だったらしく、隣のフリングスが相槌を打った。 しかし、言われてみればあまり聞いた事のない二人のやりとりは、酔っ払った状態でのこの様子をみれば、もっと凄いのかもしれない。 なにせ、付き合いの長さではこの場では一番と言っても差し支えないであろう親友同士の二人なのだから、遠慮なんて置き忘れているだろうから。 喋っている内容から推察するに、ジェイドは私塾時代に思考が退行してしまっているのだろう。 それ故なのだろうが、いつもは少しだけだが保っている『皇帝に対する態度』をすっかり崩してしまっていた。 口調が私塾時代…子供同士ならばあまり使わなさそうな丁寧語になってしまっているのは、恐らくは酔っ払い故の思考の混濁。 これをルークあたりが見たら恐れ戦いたり、あるいはアニスならば楽しそうに絡もうとするかもしれない。 中途半端に酔いが回った折に二人が先に面白い酔い方を披露し始めてくれたお陰で、ガイはすっかり酒が抜けてしまい、もはや酔っ払う皆を眺めるくらいしかやる事がなくなっていた。 相変わらず、ジェイドの小言を聞いているのかいないのか、ピオニーはひたすら笑い続け、ジェイドはそれを見て怒ったような呆れたような様子で、普段の彼からすれば随分幼稚な文句を並べ立て続け――――――…そして、それは唐突に中断した。 「?」 驚いて、一度外した視線を再びジェイドへと戻せば、彼はピオニーの肩に顔を乗せていた。 その身体は、ぴくりとも動かない。 これは一体どういう事だろう――――…その場にいた誰もが吃驚して二人の挙動に注目したその時、ピオニーの気楽な笑い声がぴたりと止んだ。 「―――――…なんだ、今日は潰れるのが早いな」 「………陛下!?酔っていたのでは?」 思わず叫んだガイの方を向いたピオニーの表情は、酔っ払いの顔ではなかった。 してやったり、といわんばかりのその顔は、年甲斐もなく悪戯っ子のように見えてしまう。 「なに、こいつは絶対俺がはめを外してからじゃないと酒量が増えないからな。演技だ、演技」 言いながら、彼の手元には、酒に混じって普通の飲み物がストックされていて。 どうやら、酒を少しずつ飲みながら、それらで酔いを飛ばしていたらしい―――――…それは、ジェイドの次に近くにいた臣下も気付いていなかった。 さすが皇帝…というか、さすが、ジェイドの幼馴染といった所だろうか。 二の句が告げなくなっているガイに満足すると、彼はすぐに自らに寄りかかる幼馴染に視線を移した。 少し体勢が変わった為に肩から落ちそうになったジェイドをしっかりと腕で支えながら、状態を確認する。 規則的な寝息を立てているのを確認したピオニーは、どういう訳か、やけに満足げに笑った。 ジェイドは、どうやら唐突に限界が訪れるタイプらしい。 つい先ほどまで、酔った片鱗すら見せず(ただし、酔っ払っていると明らかに分かるほどの面白い喋りを見せてはいたが)に飲み続けていたのだが、今は完全に夢の世界…いや、夢すら見ない深い眠りの世界に落ちているようだった。 いつも寸分違わぬ同じ位置にかけている眼鏡が少しばかりずれ、彼からすればありえないくらい穏やかな寝顔だ。 黙っていれば本当に美人なのだ、という事を、改めて思い知らされる。 そしてその美人を腕に納めた皇帝は、独り言のように―――しかし近くまで来ていた者には聞こえてしまっていたのだが―――呟いた。 「いつもは二人で飲んでるから、警戒してたんだな」 「…?あの、陛下?」 「ん、どうしたガイラルディア」 そっと手を上げて質問したいという意思表示をしたガイは、心なしか青ざめた顔でピオニーを見る。 既に彼はジェイドを肩に担ぎ上げ(体格差はないというのに、随分と力持ちだと思う)、宴会場を後にする気満々といった様子。 それは酔っ払いの介抱…というよりは、何か別の意図を含んでいるように感じられた。 「ジェイドの旦那を潰して、どうするおつもりで――――…いや、ええっと…な、なんでもないです、やっぱり」 言いかけて、途端に妖艶なものに変わったピオニーの表情を見て、本能的にまずいと察知したガイは、質問を中断してしまった。 もはや聞かずとも、表情で彼の意図は分かってしまった。 加えて、先ほどの台詞。 2人で飲んでいると警戒される、という事は、つまりはそういう事なのだろう。 …………決して口には出せないが。 というか、あのジェイドが…と考えると、全く想像がつかなかった。 しかしそんな周囲(主にガイ)の内心を知ってか知らずか、ピオニーは終始ご機嫌だった。 「今夜は部屋の見張りはいらんぞー。後でジェイドが怒るからな」 彼もそれなりに酔っているのだろうか…さらりととんでもない発言を残して、何処かうきうきしたような様子で宴会場を後にした。 宴会の会場中に生温かい空気を残したまま――――――――…。 (こんなんが皇帝でいいのか…マルクト帝国…!) ガイの心の叫びは、しかしこの皇帝に仕えるジェイド以外の臣下が誰しも最初に思うことであったりする。 その事実を彼が知るのは、もう少し先の事だった。 Fin. +反省+ |