「お前なんか」 ……に無理矢理沿った感が否めないです。 ぶっちゃけ殆ど沿ってないです。 まだ30代という若い皇帝が治めるマルクト帝国は、譜術を中心として目ざましい発展を遂げた国家である。 隣国キムラスカ・ランバルディアが譜業を主軸として発展していった国家とするなら、マルクトはいわば譜術国家といえよう。 首都グランコクマは譜術によって水上に浮かび、整然と区画整備された街中には水の流れる音が響き渡る。 そして、街を進んで行くと滝のように流れ落ちる水に囲まれた宮殿が見えて、その様を正面から見ると実に壮観だ。 長く続くこのマルクト帝国だが、若き皇帝に代替わりしてからもずっと国内は安定しており、壮麗な宮殿も一度だって敵の襲撃など受けたことはなかった。 これもひとえに、マルクト現皇帝ピオニー9世、彼の賢政のお陰であるのだが、国民の期待はそれに留まらない。 『これで、あとの問題はお世継ぎだけですね』 笑顔で、皆が口を揃えて言うことは同じだった。 結婚適齢期をとうに過ぎた皇帝は、結婚相手には事欠かない筈なのに、何故か未だに誰とも結婚しようとしないのだ。 それは、近しい臣下たちならば、身分違い故に結ばれる事のなかった初恋の相手が――――…親友の妹が忘れられないから、という理由に 思い当たるのだが。 だがそんな事情を知らない周囲は、日々声高に妃を、世継ぎをと叫ぶ。 それを笑顔でかわしながらも、内心煩わしいと皇帝が思っているのは……実はあまり知られていない。 「―――――いい加減、身を固めたらどうなんですか?周りが煩いですよ」 ブウサギたちに全てダメにされてしまう為、厚意により(とピオニーは思っている)本を置かせてもらっている部屋の主である男が、音も 立てずにペンを墨壷へと収めた。 先ほどまでは ようやく構ってくれるつもりになったのだ、という意味では気分が持ち上がってきたものの、第一声の言葉には頷きかねて、思わずピオニー は不機嫌な顔になる。 「お前までそれか。」 宮殿内で唯一、皇帝以前の付き合いであり、身分の差関係なく相手をしてくれる彼ですら世継ぎ問題を口にしてくるとは思わなくて、つい 、言葉が棘を含んだものになってしまう。 「おや、私は陛下の臣下として至極真っ当な事を言っただけですが?」 「お前が言うと胡散臭い」 「陛下。陛下の忠実で有能な、そして婚期を逃してしまった同年代の中年としての意見なのですから、少しくらい聞き入れてくださっ ても良いのではありませんか?」 何やらやけに引っかかる物言いから察するに、彼も結構不機嫌らしい。 はて何故だろうとピオニーが首を傾げていたら、彼―――ジェイドが溜息と共に指で眼鏡を押し上げた。 「人の本を下敷きにしておいて、随分ふざけた本をお読みですね、陛下?――――もうすぐ貴族院に向かわれる時間だと思うのですが、 いつまでそんな本を読みながら人の部屋でくつろぐおつもりですか」 そんな本――――…言われてみて、ふと自分の手元に視線を落とす。 ジェイドから見えているであろう背表紙のタイトルは「ブウサギの魅力」。実にピオニーらしいセレクトだと思うだろう。 だがその中身だけは別のものに差し替えられていて、内容は――――…いわゆる夜の技術に関するものだったりするのだが、実際彼から 見えてはいない筈だった。 ――――普段いつも置き去りにしているこの本を彼が覗き見てさえいなければ、分かる筈がないのだ。 そう、覗き見てさえ、いなければ。 「…片付けをした時に見ましたよ、その中身は。そんな本を読まれるからには、妃候補探しに積極的という事ですぐにでも見合い写真を 手配させますよ」 確信めいた視線を送れば、仰々しい溜息と、呆れた、といわんばかりの口調での嫌味が返された。 「いや…この通り、日々研究に忙しい。お前にもっとイイ思いをさせてやろうという俺の努力も分からないのか?」 「男を喘がせる技能ばかり磨いてどうするのですか。磨くなら、ネーミングセンスの方が良いかと思いますよ?」 「!――――……お前、もしかして『ジェイド』の事で怒ってるのか?」 表面上は普段通りなのだが、幼馴染たるピオニーには、彼の隠し切れていない苛立ちが分かっていた。 最初は、執務に没頭すべき時間…昼間にこのような本を読みふけっている事に対してかと思っていたのだが、それよりも最近新たにピオニ ーのペットとして仲間入りした、ブウサギの「ジェイド」のこと…主にその名前の事が、気に入らなかったようだ。 更に、それだけではなく、自分にまで誤解の余波がやって来て、腹いせにピオニーにとって耳の痛い話題を持ってきた、といった所だろう。 あまりに簡単な理由に辿り着いてしまって、ピオニーはくつくつと漏れる笑い声を抑える事ができなかった。 その声を皮切りに、己の名前をつけられてしまったジェイドは目に見えて不機嫌さを増していく。 「笑い事ではありません。お陰であらぬ噂まで立って、私の事を変な目で見る人が増えているんですからね」 憮然とした声でぼそりと告げられた事実には、しかしさすがにピオニーも無視できないものだった。 「ふむ、それは困るな。女性は寄ってこなくなるだろうから丁度良いと思ったのだが」 ブウサギのジェイドは、ひねくれていて口を開けば嫌味ばかりの人間のジェイドと違って、実に素直で愛らしい。 だからピオニーの中で、ブウサギのジェイドは「可愛いジェイド」、人間のジェイドは「可愛くないジェイド」と決まってしまっていた。 そうして可愛いジェイド、可愛いジェイドと連呼している為に、それがブウサギと分からぬ人の間では凄まじい曲解であったり、あながち 間違いでもなかったりする噂が囁かれているようだ。 ネーミングセンスの無さは確かに認める所だが、特に気に入ったあのブウサギにジェイドと名付けたのは、ジェイドに近付く人間の撃退に も繋がっていると思ってのことだったのだ。 それがまさか、逆の方向に働くとは思っても見なかった、と、ピオニーはジェイドとは全く方向性の違う反省をしていた。 「………あなたという人は」 案の定、長い付き合い故に考えていることなどとっくに看破してしまったジェイドは、じろり、と横目でピオニーを睨みつける。 譜陣を施した紅い瞳で睨まれれば、大抵の人間は恐れ慄いてしまうものなのだが――――やはり、彼には通用しないらしい。 「…ともかく、世継ぎは由々しき問題ですよ。」 「いいさ、世継ぎなど養子を取ればいい。あえて欲を言うなら、俺はジェイド似の子供が欲しいな」 本気のような冗談のような、ジェイドにすら分かりかねる、食えない笑みを浮かべながらピオニーは言った。 一瞬その発言を聞いて虚を突かれた風な顔をしたジェイドだったが、しかしすぐにその表情を引っ込める。 「――――…それはまた、難しい注文ですね」 「白い肌に金髪で、そうだな…性格は似てない方がいいかもしれないが」 勝手に自分の遺伝子も織り交ぜて想像を巡らせているらしい主君に苦笑を浮かべながら、ジェイドはしかし本題を忘れなかった。 「それは分かりましたから、名前、変えて下さいね」 「………それはダメだ。もうジェイドはジェイドが自分の名前だと認識してしまっている」 「………………………反逆罪で投獄されてもいいので、今ここでふっ飛ばしても宜しいでしょうか」 この馬鹿にはもう、それしかない。 お前のような奴が皇帝の座にいる事、それ自体が間違っている。 そういわんばかりに、返事も待たず本気で詠唱を始めたジェイドに気付いたピオニーの対処行動は、軍人である彼よりも迅速だった。 「っ!」 机の傍に立って構えていたジェイドを、彼が痛みに呻くのも構わず壁に押し付け、驚いて詠唱を止めたその口を塞ぐ。 上げていた片腕はピオニーの片手によって顔のすぐ横に縫い止められ、動かす事は不可能。 残った片腕で反撃を試みようにも、ピオニーは残った腕でジェイドを囲い込んでしまっていて、上がらなくなっている。 眼鏡が近付きすぎた顔によって押し付けられ、耳障りな音を立てるのも構わず、ピオニーは時折濡れた音を立てながら、その唇を蹂躙し続けた。 「…………っは」 「……黙っていれば可愛いものを」 夜の顔で、妖艶に微笑んでみせるピオニーに知らず背筋に何かが走るのを感じながら、しかしジェイドは気丈にも、眼鏡を直して睨み返す。 「――――…ともかく、あいつはジェイドだ。反論は許さない。」 話を逸らさないで下さい、とでもいいたげな大佐殿の表情を読み取ってそう返してやると、まだ不満げな顔がこちらを窺っている。 それを見てふと悪戯心が沸いたピオニーは、「不満なら、さっき読んでいた本の内容を今ここで実践するが」と続けてやった。 するとさすがに仕事が滞ると判断したのだろう(実際はもっと様々な理由を考慮したのだろうが)、今度こそ大人しく、だが渋々とジェイド は納得してくれたようで。 「……………なんですか、その目は」 …だが、ピオニーはジェイドが納得したにも関わらず、解放しようとしない。 「――――すまん、気が変わった。」 彼は、先ほど自分で無意識のうちに寛げてしまっていたジェイドの襟元を、そこに残る昨日の名残を見ていたのだ。 加えて、普段軍服をかちりと着こなす今の彼に少しばかりの夜の姿を垣間見てしまい、年甲斐もなく制御がきかなくなったらしい。 そうして、外に警備兵がいるのも忘れて喚くジェイドを抱えて、世継ぎを心配されるマルクト皇帝陛下は大佐の仮眠室へと消えていく。 ―――――仕事など、勿論彼の頭からは消えていた。 +反省+ |