[無題7] なんでもない日常な話。 ――――――更に数ヶ月が経ち、とうとう誤魔化せないほど腹が膨らんできたジェイドは、仕方なく慣れた軍本部の執務室から、陛下の私室に近い部屋へと仕事場所を移した。 宮殿の一角にあるこの部屋は、軍本部の執務室とは比べようもない程広く、置いてある執務机も軍の予算で買ったジェイドの愛用品の数倍もしそうな優美なデザインの机で、使い勝手も良い。 デスクワークが苦手な軍人が少しでも苦にならぬように、と、軍は椅子にだけは予算を割いている筈なのに、軍本部使用の椅子以上に座り心地の良い椅子が用意されているのは、もしかしてもしかしなくとも、ジェイドの身を心配してのことなのだろう。 仕事をするといって聞かないジェイドの為に用意された調度品、備品の数々を見て回って、張本人たるジェイドは重いため息を吐く。 臨月まで仕事を続ける軍人やメイドは決して少なくはない。 妊娠期間中、当然の措置として力仕事などからは遠ざけられるが、基本的に通常業務を行っている。 だが、それはジェイドの場合にのみ猛反対をくった。 あのフリングスですら、「そればかりはなりません、大佐」といやに真剣な顔で諭してきたのだ。 それは、初の皇帝の子が宿っているジェイドに対して当然の反応だったのだが―――――ジェイドにとっては心外だった。 皇帝が相手だからといって、何故自分だけ仕事から遠ざけられなければならないのか。 デスクワークは力仕事でもなんでもない、ただの頭脳労働だ。 座ってペンを手に取っている事の、どこがいけないというのだ。 慣例に倣って訓練は指揮を執るだけで自分は参加していないし、演習だって指揮だけに留め、場所もグランコクマのすぐ傍で行っている。 この自分がこれだけ譲歩し、大人しくしているというのに―――――何がいけないというのだ。 結局ほぼ全員の反対を受け、しかしジェイドの気持ちも分からないでもない、というピオニーの言葉で、こうして宮殿に特別に執務机等を用意させ、仕事続行の許可を得た。 それも、ようやくだ。 議会を納得させるのにも、ジェイド自らが出席し出席者全員を黙らせた。 それでようやく、この措置である。 軍本部ではなく、宮殿の、このだだっ広い、ベッドのある部屋での仕事。 この厳重というか過剰すぎる措置が何を意味するのか、分からない訳ではない。 軍本部での執務続行を反対された理由も、恐らくは有事に備えての事なのだろう。 何かが起きた際、まず襲撃されるのは国家の盾である軍の本部であるのは自明だ。 だが、ここはそれ以前に、水上に位置し、陸からの入り口は宮殿からはるか遠く、背にある海は滂沱の滝、その上譜術によって防御されている。 この鉄壁の要塞帝都グランコクマにあって、何の不安要素があるというのだろうか。 防衛に関して自分も熟知している為に絶対の自信があるジェイドは、だからこそ不満だった。 不必要な心配をされる事と―――――特別扱いされる事と、そして何より、自分が庇護される事が。 決してマタニティーブルーなどという普遍的な理由ではない理由で日に日に不機嫌になっていくジェイド。 そんなジェイドとは対照的に、もうすぐ子供が見られるという嬉しさからなのか、ピオニーの方は日に日に上機嫌になっていた。 いつもはサボる口実として向かう執務室へ行く用がなくなったと思ったら、早々に仕事を終わらせ、隣室のジェイドの元へと通うようになり、ジェイドが軍本部で執務を行っていた時よりもタイムロスが減った。 彼なりのジェイドの小言を回避する為の作戦なのかも知れないが、ジェイドの執務室移動はピオニーの執務効率上昇という、思わぬ波状効果も発揮していたのだ。 「ジェイドー、大人しくしてるか?」 がちゃ、と扉が開く音と共にブウサギの鳴き声。 その効果音でもって部屋に入ってきたのは、例の如く隣室で執務を真面目にこなしていたピオニーその人だった。 だが彼は愛するペットであるブウサギを連れて入るつもりはないらしく、主に続いて扉をくぐろうとしていたブウサギに小さく謝ってから、素早くその扉を閉める。 「―――――大人しくもなにも、いつも通り仕事ですよ。」 「順調か?順調みたいだな、その様子だと」 一体、どっちの事を言っているのか。 机の上を見つつもちらりと腹に視線がいっているのを確認したジェイドは、疲れたようにため息をつく。 この男、日に日に大きくなっていくジェイドの腹を見て、実に嬉しそうに笑うのだ。 親になるのが嬉しいのだろう。 気持ちは分からないでもないが―――――正直わずらわしい。 別に、ピオニーとの子が生まれるのが嫌な訳ではないのだが、皇帝の子である為に、こんな過剰な措置を取られ、毎日毎日ピオニーが状態を見に足繁く通ってくるのが、どうにも落ち着かないのだ。 それを一般的に恥ずかしいような照れくさいような嬉しいような、等と称するものなのだが―――――ジェイドは幸か不幸かそんな感情とは無縁の生活を30年も送っていた為に、そんな形容詞さえ浮かばなかった。 「陛下。分かっておられますか?私はまだ正式には――――」 「分かってるさ。婚姻が正式に交わされるのはお前の状態が落ち着いてから……というか、出産以降になる。正式には夫婦じゃない、妃ではないと言いたいんだろう?」 ジェイドが籍の上では未だ第三師団師団長、大佐という地位でしかないのにこの措置というのが納得いかない、というのを見越して、ピオニーはジェイドに負けず劣らずの武装理論で返す。 だが、いつもなんだかんだで口ではジェイドに負ける事の多いピオニーが完全に言い返してくるのは、これだけはどうしても譲れないからなのだ。 ジェイドが考えている通り、この帝都グランコクマは軍本部だろうが安全だ。 地理的要件と譜術によって、このグランコクマは隣国キムラスカの王都バチカル以上の要塞都市となっている。 たとえ皇帝の子を身篭っていても、軍本部で過ごしていようが宮殿で過ごしていようが、グランコクマにいるのならばまず恐れている事態など起きよう筈もない。 だが、ジェイドはひとつ、考慮していないことがある。 「―――――だけどな、ジェイド」 皇帝の懐刀と呼ばれ恐れられるジェイドは、きっと考えたことさえないのだろう。 皇帝と軍人という間柄故に、常に背に庇われる悔しさを、隣に立てないやるせなさを。 分かってくれとも隣に立ちたいとも言わないし、言うつもりもないが―――――― 「せっかく、公然とお前を守る口実が出来たんだ―――――…大人しく、ここにいてくれよ」 「……陛下、」 続きはその唇に乗ることはなく、ピオニーの含みのある笑顔で黙殺された。 皇帝は、常に守られる立場にある。 それは当然のことだ。 幼少の折に雪山で魔物に出くわした時のように、彼に剣を持たせるわけにはいかない。 勿論、ひとたび剣を持たせれば強いことは分かっていたが。 だがジェイドは、その彼を守る盾になり、施政者としての彼を後ろから支える為に軍人になった。 ジェイドにとって彼を守る盾になり、身を削ることなどなんでもない事だったのだが―――ピオニーにとっては、それが不満だったらしい。 だがこういう事になって、『子の為』という大義名分の下、母親であるジェイドを堂々庇護下に置けるようになった事が、公然と自分がジェイドの盾になれる事が、嬉しいのだ。 「……仕方のない人ですね」 不満きわまりない措置は、どうやら子の為というよりもピオニーの我侭に近いものだったらしい。 だが、不満だらけだったこの措置がピオニーの笑みで急にどうでもよくなってしまったジェイドは、ため息と共に困ったように笑ってみせる。 「いいだろ、たまには我侭言っても」 「皇帝陛下がいつも我侭を仰っては臣下が困ります。……というか、我侭が過ぎた時点で私が刺しますよ」 「ははっ…それは怖いな」 真顔で毒を吐くも、幸せ絶頂らしいピオニーにはひとかけらも届いていない。 その時点で完全に諦めたジェイドは、完全に腹に視線がいってしまっているピオニーを見て、今度はふっと、優しげに笑った。 +反省+ |