[運命] [赤い糸]の続きの続き。 ジェイドの覚醒と回復は、驚く程早かった。 条約手続きの関係で少々皇帝が席を外している間に、彼はぱっちりと目を開けたのだ。 失血量と怪我の程度を考えれば異常ともいえる早い目覚めに、さしものフリングスも慌てる。 「――――大佐」 「…………少し、寝てしまっていたようですね」 ぼそ、と小さな声で発せられたのは、間の抜けた一言だった。 彼からすれば珍しいぼけた台詞に、フリングスはほっと息を吐く。 いかに化け物じみた回復力とはいえ、やはりジェイドも人間なのだ――――勿論そうだと分かってはいたが、時折、ふと不安になるのだ。 皆口を閉ざし、禁忌としているが――――…彼はあのフォミクリー研究の中心人物で、それに準じた行動故に、死霊使いとさえ呼ばれた男。 実際は違うと分かってはいても、こうして常人足りえぬ部分を見せられてしまえば、やはり陰口を戯言と無視することはできない。 事実として、フリングスも時折ジェイドが恐ろしく見える時があるのだ。 だから、その分彼の人間味のある部分を見られると、ひどく安堵する。 「――――本当に少しですよ。調印はしましたが、まだ正式な条約締結手続きを終えていないくらいですから」 「間に合ったようで何よりです」 「…!大佐、いけません」 ゆったりと起き上がろうとしたジェイドを、フリングスは慌てて制止する。 ジェイド自身はあの事態をやり過ごすのに必死で、自分の失血量など見てもいないだろう。 今起き上がれば、たとえ意識は戻っていても、血圧や血液量が足りず、確実に眩暈を起こしてしまう。 だがそれを説明する前に自分の状態に気づけたようで、フリングスの顔を見るなり苦笑を浮かべ、また元の位置に戻ってくれた。 ジェイドがベッドに戻ってからは、暫時沈黙が続く。 元より話す話題はなかったし、何よりジェイドは本当なら、話せるような容態ではない。 この怪我でこの短時間の内に目を覚まして会話をする事自体が稀なのだ。 そう判断して、フリングスは沈黙を守る。 自身で言うのも何だが、うっかり不用意な事を言ってしまいそうで――――そうしたら、ジェイドが動き出してしまうかもしれない。 特にそんな案件はないのだが、何がきっかけになって活発に動き出すのかわからない人物だから、特に注意しなければ。 そんな事を考えながらジェイドを見ていると、彼は眠気など飛んでしまったのだろうか、しっかりと目を開け、天井を見つめているのが確認できた。 ―――――――感情の読み取れないその表情の奥で、一体何を考えているのだろう。 勿論、その奥には絶対以上の皇帝への忠誠が眠っているのは分かっている。 そうでなければ、皇帝の言葉がなくては救援すら望めなかったあの場で、皇帝の為に命をなげうつような無謀な真似をできる訳がない。 しかし。 いくら皇帝に忠誠を誓う軍人とて、命の危険がすぐそこまで迫ってくれば、目の前の命の方を優先するのが普通だ。 それでもこのジェイドは、倒れる寸前まで足止めに専念した。 その無謀な行動によって部下を失って、自分自身すら、あとほんの少しフリングスの到着が遅ければ死んでいたかもしれないのに。 「――――――…大佐は」 フリングスは、自分自身でも気づかぬうちに、その疑問を声にしていた。 「…ジェイド大佐は、その―――恐ろしいと思ったことはないのですか?」 「……恐ろしい、とは?」 「―――――あの場では、救援が来るかどうか、そして大佐が無事な間に到着できるかは、は五分以下の確率でした。 死ぬかもしれないあの場で、大佐は逃げようとは考えなかったのですか」 詰問にも―――そして自問にも近い言葉。 もし、自分ならどうするだろう。 合理的判断に基づくなら、ジェイド程の怪我を負っていたら、まず間違いなく撤退を選ぶ。 残党がカイツールへ向かうだろうが――――大した人数でなければカイツール駐屯兵がどうとでもしてくれるからだ。 元々、国境に近いカイツールには、多くの兵がいる。 会談というには少々まわりが騒がしくなる可能性もあるが、撤退する事が最も戦術的で合理的な判断なのだ。 師団長級にもなれば、矮小な自身とはいえ軍の戦力としては大きい。 自信過剰でも何でもなく、それが冷静な判断だ。 フリングスも、ジェイドも、国にとっては失ってはならない戦力。 なのに、どうして彼はその判断に目を瞑ってあの場に残ったのだろう―――――――…。 フリングスは、どうしても理解ができなかった。 最初は、失血のせいなのか、単純に質問の意図を考えていたのだろうか、理由は分からないが答えあぐねていたジェイドだったが――――――ややあって、なんでもないことのように笑ってみせて。 「――――――恐怖という感情は、私には理解しかねます」 そして、幾多もの死線を潜り抜けてきた死霊使いとは思えない台詞を吐いた。 その回答にフリングスが二の句が告げなくなっていると、ジェイドはすぐに補足を加える。 「いえ、これでは回答になりませんね。……しかし逃げるという選択肢は、最初からありませんでした」 「何故…、とお聞きしても宜しいですか?」 自然と低くなる声を自覚しながら、なおもその回答の続きを急く。 ―――――ジェイドの言葉は、普段からは考えられぬ程にゆったりとしていて、まるで別人の語調だった。 「カイツール駐屯兵の力を疑う訳ではありませんが、私はとにかく陛下から賊を遠ざけたかった。」 「………」 「…作戦でも戦術でもなんでもない。ただの、私のわがままなんですよ」 「――――――――…大佐……」 これが、真の忠臣というものなのだろうか。 命がけの足止めを成したというのに、それをただの我侭だと笑うこの男の神経に、フリングスはこの時初めて恐怖した。 得体の知れない同僚でも、死霊使いでもない――――ただのこの男に、恐れを感じたのだ。 それは今までの漠然とした思いではなくて、真実この男を敵に回したくないと思わせるほどの、純粋な恐怖、畏怖。 こんな軍人は、今まで見たことがない…というより、例がないだろう。 冷静であるようにみえて、その実全く冷静ではないのだ。 冷静で状況判断能力に優れた同僚だという自らの評価を、今この時をもって、変えなければならない。 フリングスは、つくづくそう感じた。 「こんな話はともかく、フリングス少将」 唐突に話を終えて、ジェイドは先ほどの表情などまるでなかったかのように、いつもの笑みでフリングスへと声をかける。 そのあまりのギャップに驚きながら返事をすると、 「私はこの通り、満足に動けないので――――帰路の折、陛下の護衛を宜しくお願いします」 「……………………は、はい」 やはりいつものような口調で頼みごとをして―――――すぐに寝入ってしまう。 本当に、血が足りなかったようだ。 まるで今まで話せていたのが奇跡であるように、青い顔のまま気絶するように眠っているその姿を見て、フリングスは急くように椅子から立ち上がった。 きっと、すぐに皇帝が戻ってくるだろう。 この臣下の危険性を分かっているのかいないのか、分かっていて放置しているのか――――それとも、分かっていて傍に置いているのか。 どちらにせよ、あのジェイドを懐刀と呼称するあの皇帝は、只者ではない。 この取り合わせが預言に詠まれていたのなら、なんと恐ろしいことか。 一歩間違えれば、マルクトの運命さえ変わるかもしれない―――――たとえば、もし皇帝が心ならずも崩御した折には、一体彼はどうなるのか。 あれだけの能力と頭脳を持った男が暴走したら――――――…。 考えただけで、フリングスは怖かった。 皇帝は、それですら覚悟の上なのだろうか? …しかし、いくら考えたところで彼の思う所や意図など分かる筈もない。 ジェイド以上に底の知れない主君を思い浮かべてすぐに打ち消すと、フリングスは足早に詰め所を出て行った。 +反省+ |