[枷] 故郷の記憶は、殆どが真っ白な世界であり、そのうちの一日だけを覚えている、というのはそうない。 しかし、長らく過ごしたケテルブルクでの日々の中で唯一、最も鮮烈に記憶に残っている一日があった。 「本当に離れちまうんだなぁ」 私塾の帰り、遊んで過ごした――――…といっても、ピオニーの方から強引に誘って遊ばされたといった方が適切なのだが――――広場で、二人の少年は向かい合っていた。 カール三世の像を背後にしている紅い瞳の少年は、まるで他人事のように自身の行く末を呟く自らの友人を見て、眉を顰める。 今日、彼の友人…いや、親友と言っても過言ではないだろう少年が、生まれた地である王都グランコクマへと戻ってしまう。 元々出会う筈がなかったかもしれない、王族という身分にある彼とは、思えば色々な事があった。 過ごした時の長さは、生まれも育ちも一緒であるサフィール程ではないにしろ、不本意ながら研究仲間であるサフィール以上の存在に なってしまった彼と離れるのは、表情にはあまり出ていないようだったが、本当に寂しかった。 「寂しい」などという感情がなさそうだ、と揶揄される自分ではあったが、本当に。 だからこそ、こんな憮然とした表情しかできない自分が、とても嫌だった。 「そうだね。もう、二度と会わないかもしれない」 「おいおい、つれない奴だなぁ。会いに来たりもしてくれないのか?」 冷たい物言いしかできない。 事実、そういう可能性も否定できなかったから、口にすることで自分にそういった覚悟の準備をさせたかったのかもしれない。 会わない…というよりも、会えなくなるという可能性は、非常に高い確率でありえることだったから。 しかし、その発言でピオニーが何処か悲しそうな顔をする。 そんな表情を見ていられなくなった少年―――ジェイドは、素っ気無い風を装って横を向いた。 「――――――…ジェイド、こっち見ろよ」 「いやだ」 「……ジェイド」 「いやだって――――…ッ」 しつこく名を呼ばれても一向に振り返らなかったジェイドを、温かいものが包み込む。 抗う間も与えず、ピオニーがその腕の中に入れていたのだ。 一体、いつの間に―――――…驚くジェイドを他所に、ピオニーは、声変わりも終盤に差し掛かりつつある低く掠れた声で呟く。 「お前が素直じゃないのは、俺が一番知ってる……つもりだ。だけど、これは俺の自惚れだと思ってくれ」 「……………」 この会話が、もしかすると最後になるのかもしれない。 こうして、彼の体温を、匂いを感じる事が出来るのも、もうこれで最後なのかもしれない。 すぐに離れようと腕を突っぱねようとしたジェイドだったが、ふとそんな事を考えてしまって、抵抗できなくなった。 「すごく、寂しそうな顔してるぞ、お前。他の奴なら分からないかもしれないけど……俺には、そう見える」 こんな近くで、この声が聴けるのも―――――…これが、最後。 全てが、もう二度と感じる事ができないのだと思うと、ジェイドは初めて自身の感情を素直に表情に出せるような気がした。 そんなジェイドの内心の変化を見計らったかのように、ピオニーは彼の肩を掴んで少し距離を取り、その顔を窺う。 すると、少しだけ成長が加速し始めた、大人とも子どもとも言い切れないピオニーの表情が、ジェイドの視界を埋め尽くした。 ああ―――――… 自分でも分かるくらいに、顔が歪んでいく。 「ピオニー……」 目が痛くなってきて、それを誤魔化すかのように、ピオニーの服へと顔を押し付ける。 きっとその行動すらも彼には何なのか分かってしまっているのだろう。 しかしそんな事にも構っていられなかった。 宥める彼の優しい声が、すぐ近くで聞こえてくる。 もう、喧嘩をする事も、笑いあう事も、気兼ねなく、互いの名を呼び合う事さえも、出来ないのだ。 「なあ、ジェイド」 「………」 この声で、こんな調子で自分の名を呼ぶ声は、ピオニーだけだ。 恐怖も、先生を死へと追いやったというおぼろげな侮蔑も、この頭脳に対する羨望も、何も含まない―――――…ただ、友愛の念だけの篭った優しい声。 決して告げたことはないけれど、実はこの声が一番好きだった。 「いつか、絶対会いに行くから」 「……いつかって、」 「それは俺にもわからないけど―――――落ち着いたら、お前に会いに行くから。約束する」 ピオニーは、困った風に笑っている。 きっと、それほど自分はすごい顔をしているのかもしれない。 滅多に見ることの無い彼の表情を見て苦笑しながら、ジェイドは不確かな約束に頷いてみせた。 「ピオニー」 最後になるかもしれない……いや、最後になる名前を呼んで、ジェイドは出発の刻限である事をピオニーに知らせた。 ジェイドの側から見える、雪景色の向こうからやってくる馬車の存在は、もうピオニーが港へ向かわなければならない事を示唆している。 これで、この優しい親友とも会えなくなるのだ。 そっと腕から逃れて、ジェイドは何でもない風な表情を作った。 勿論、彼には分かってしまっているだろうが、大人を誤魔化すには十分だ。 「それじゃあ、な。ジェイド」 「…………うん」 あとはピオニーだけなのだろう。特に目立った荷物は詰まれていない馬車を視界に入れながら、ジェイドは小さく頷いた。 寂しい。 そう叫んで泣けたなら、どんなに楽だろう。 でも、それが出来ない性分である事をピオニーはよく分かっていて、その上で、彼は苦笑している。 結局、最後まで彼には勝てなかった。 あの約束は、糧であり、枷。 守れるかも分からない、不確かな約束だ。 あんなものに縋って生きて行くなんてばかばかしい。 そう内心では否定しながら、気休めのようにそれに固執している自分に気付いて、愕然とした。 だから、自分自身に約束した。 もう、二度と会えなくても、どんなことがあっても、「彼」を呼ばない――――――…。 +反省+ |