[あの頃には戻れない] 幼年期、ケテルブルクで三人で馬鹿なことをして過ごしていたのが、唯一の子供らしい思い出だった。 あの年頃特有の、『もう、こんな日が訪れることは二度とないのだろう』という――――漠然とした寂しさや、諦念。 そうした思いは、あの頃でなければ思い得ない。 普通なら、単なる幼少の頃のほほえましい思い出として片付けられる三人の少年がケテルブルクで過ごした日々は、 しかし三人ともが「普通」として片付けられる子どもではなかったが故に、ただの温かい思い出になってはくれなかった。 あの日々は、彼らの、そして彼らを知る者の胸のうちに、鈍い痛みを伴って残っている。 決して穏やかな日々ばかりではなかったし、色々と問題のあることもしでかしたあの頃だけれど、私塾の師を失ったことをきっかけに、あの日々は全て鈍痛を残す苦い思い出に変わってしまったのだ。 あの「日常」がいずれなくなるであろう事を一番強く感じ、しがみ付こうとしていたのは、実はジェイドだった。 ピオニーとて三人の中でも特にあの日々に固執していたようだったが、ジェイドとは全く別種の、純粋な惜寂の思いゆえのもの。 何せ、彼はこれまでも、これからも、飼い殺しにされる運命にあったから…当然といえば当然のことだ。 そんな折、好奇心ばかりが先走った結果としてその日常を自ら壊してしまったジェイドは、必死にその日々を取り返そうと、それこそ本当に子供のようにむきになった。 なまじ優秀な頭脳を持っていたがゆえに、極端な形で。 不足した部分を補うように、一人を道連れに。 一人を、置き去りにしたまま。 「日常」を――――――師が健在であった日常を、師のレプリカを作り、彼女の代わりとしてその位置に置くことで取り戻そう、などと。 子供じみた必死な思いにかられて、ジェイドは踏み込んではいけない領域に入り、禁忌の限りを尽くしてしまった。 今更それをなかったことになどするつもりはないし、この禁忌に触れた指の罪深さを忘れるつもりとて、毛頭ないが。 一人、禁忌の領域に置き去りにしてきたかつての幼馴染は、未だにそれを禁忌とも罪とも思わずに、ただかつてのジェイドと同じように、失ってしまって奪還しようのない過去の穏やかな日常を取り戻せるのだと信じ続けている。 『―――――貴方は、少し道を見失っているだけですよ。私と貴方なら、今度こそ先生を取り戻すことができます。………そうは、思いませんか?』 のこのことグランコクマへとやってきた所を捕らえられたその男は、じめじめとした牢屋で、檻越しにそう言って笑った。 その微笑は、六神将内でどこかないがしろにされていた道化の男のものでもなく、ジェイドやピオニーの知る幼少の洟垂れと笑われた、天才らしからぬ少年のものでもなく。 ジェイドでさえ言葉に詰まる、昏い、闇を帯びた笑みだったのだ。 戦慄を覚えて、日を改めて――――1ヶ月ほど経過してからだろうか、今一度、人払いをして彼の元を訪れると、彼はまた同じ笑みでジェイドを出迎えた。 それも、以前よりも闇が濃くなったような――――そんな気さえした。 ジェイドが小馬鹿にして、ピオニーがからかった、あの「サフィール」の面影は、もはや何処にもない。 「…久しぶりですね。ようやくその気になりましたか?」 サフィールの姿かたちをした男は、尚もジェイドに甘言を囁く。 過去の彼からは想像もつかぬ、素っ気無いその誘いの言葉は、ジェイドにとって何よりの毒で、心身への劇薬となる。 ジェイドは荒れ狂いそうになる精神を必死に統制して、極力抑えた低い声を、何とか絞り出した。 「………サフィール…………いえ、ディスト。まだそのような戯言を言っているのですか。いい加減――――」 「私は知っていますよ。先生と相対した時、貴方は躊躇い、取り乱していた。それはつまり、」 「黙りなさい!!」 思わず声を荒げて、しまった、とジェイドは自らの口を手で押さえる。 通常なら、確固たる証拠や罪状に欠けている彼を、長く禁固しておくような理由がない。 しかしながら、このまま開放してしまえば何をし始めるかは言動からして明白であったので、少々権力を乱用して閉じ込め続けていた。 だが、その利用した「権力」たるピオニーも、そしてジェイドも、心のどこかで期待していたのかもしれない。 ディストが、いずれは自分たちの知る、ただの「サフィール」へと戻ってくれることを――――――。 「――――――また、一月後に来ます。」 男は、ジェイドと並ぶほどの天才であり、ジェイドを妄信していた。 しかしながら、それ以外の全てを変質させてしまい、男はかつての幼馴染の抜け殻と化してしまっていた。 「ジェイド。私は心変わりなどしませんよ―――――しかし、貴方が戻ってくるまで、私はここにいます」 「…………」 『ディスト』の言葉には答えず、ジェイドはそのまま看守の待つ扉の向こうへと歩き出す。 幼き日の、懐かしさと苦しさを伴う思い出は、より強い痛みを伴うものへと変わってしまったのだと―――――唐突にそう思えて、歩きながらも、ジェイドは知らずうちに顔を歪ませていた。 あの日々の中にいた、悪魔と言われた己にさえ優しく、ジェイドとは全く別の意味で聡明であった師の喪失。 そして、生きているにも関わらず、喪ってしまったかつての昔馴染。 禁忌の領域から連れ戻したかったけれど、それも、もはや難しいのかもしれない。 この次に会う時も、その次も、変わらない。 …それどころか昏さを増していく男の笑みを想像しながら、ジェイドは牢部屋の扉を閉めた。 喪ってしまった師と同じように、もう『サフィール』は還ってこないのだろうと、確信に近い思いを抱きながら。 +反省+ |