[パウダースノウ] かちり、と乾いた音を立てて―――――…ガラスの向こうの「生命」は、唐突に終わりを告げた。 この実験体は比較的成功していた方だったのだが…音素がうまく体に馴染まずに、外見以上に身体の内蔵機能が老化してしまった。 培養液の中に入れて何とか維持しようとしたけれど、老化のあまり組織の一部が機能しなくなり、腐ってしまっては、もう手の施しようがなくて。 生きた人間を実験体にするにはそろそろ厳しくなってきた時勢に勿体無いとは思ったが、仕方なく処分したのだ。 はて―――――…これで、何度目の失敗だろう。 脳裏で記憶にある実験体の数と実験の結果とを想起しながら、傍らにいた兵に死体の処分を指示し、近くにあった自身のデスクへともたれかかる。 そしてそこに置いてあった冷めかけのコーヒーを一口飲んで、ジェイドは深く息を吐いた。 「ジェイドの理論は完璧な筈なのですが――――やはり、何処か欠点があるのでしょうか?」 研究の成功を信じてやまないサフィールでさえ、そんな事を言いながら疲れたように溜息をついている。 実際このように薄暗い研究室に何日もカンヅメになっていれば、自然と陰鬱な溜息が出てくるのが普通なのだろう。 資料が痛むことや実験体の逃走危険性防止の為に、窓が小さい上に少ない構造になっている研究室をぐるりと見回して、苦笑した。 思えば、バルフォアの家の実験室の方が、いくらかは明るかったような気がする。 唐突に過去の記憶が呼び起こされて、ジェイドはふと目を細めた。 実験の対象が人間ではなく魔物や動物であった事以外、自分に変化はなかった。 レプリカを作るようになった頃にはとっくに瞳の色も譜陣の影響で紅くなってしまっていたし、ただ自分を恐れる事なく諌める人物―――――先生が傍にいたくらいで、本当に今と変わらず「悪魔」だった。 だけど、一つだけ。 『あー、またお前部屋に篭ってるのかよ。たまには雪合戦くらい付き合え!』 『…な』 銀世界に映える金茶の髪の少年。 あの頃は傍若無人としか思えなかった彼の存在が、幼いジェイドの世界をぐるぐるとかき回していった。 いずれは去る人物――――王族の子であった彼とは、どうあっても仲良くなれるはずがない、と当初は思ったものだった。 何せ、やることが滅茶苦茶だったのだ。 大事な実験中に窓から入ってきて。 問答無用でこちらの腕を掴んで、簡単に防寒具を着せたかと思えば、無理矢理に引きずり出して。 そうして、彼が最初に言った通りに雪合戦に付き合わされた。 夕方に近い時間だったけれど、雪が僅かな光を反射して明るかった為に、気が付けば空はどんよりと黒くなって夕刻を過ぎている事を知らせてくれて、そこでようやく子どもの遊戯から解放された。 皆が解散したその後、しかし彼は唐突にジェイドの手を掴む。 『冷えてるな』 その言葉にむっとした。 冷やすようなことをさせたのは、誰だと――――思わず言いかけたら、その手を両手で包まれて、息を吹きかけられた。 そんな事、親にも、ましてや妹にだってされたことがなかったものだから、ジェイドは酷く狼狽してしまって、彼が訝しがるのも構わずに硬直してしまう。 『悪かった――――お前、冷えやすかったのか』 『………っ!』 言いながら、彼は本当に申し訳なさそうに、自分のマフラーをジェイドの首へとかける。 そんな風に笑われると何故か二の句が告げなくて、不満げな顔をそのまま横へと向けるくらいしか成す術はなかった。 こちらは友達だと思ったことさえなかったというのに、いつの間にか友達だと宣言されて、怒っても全く聞き入れられなかった。 そんな彼との出会いは、同時にいずれやって来る別離をも感じさせたものだったけれど―――――決して嫌いになれなかったのもまた、事実だった。 それに、初めてだったのだ。 恐れる事なく話しかけてきた人間も、気負いなく自分に触れてきた温かい手も。 そして、譜陣が刻まれ、薄気味悪いと親にさえ目を逸らされた、この紅い瞳を「綺麗だ」と褒めた人も―――――。 「…………」 どういう訳か、実験の内容や実験体の記憶よりもそちらの方が鮮明で、ジェイドは思わず自身の記憶を疑いたくなる。 それに―――――あの屈託の無い彼の笑みが頭をちらつくと、何故か心が重くなってくるのは何故なのだろう。 目を閉じても、何か別の事を考えようとしても、どうしても頭から離れなくて。 だからジェイドは仕方なく、誤魔化すようにコーヒーを一気に喉に流し込んで、研究室を後にした。 「――――――」 夜明けにも近い時間、ようやく収束の様子を見せ始めた戦場の片隅で、ジェイドはくたびれた軍服の裾をまとめながら近くの石に腰掛けた。 もはやさしたる人員も必要としない、終わりかけの時間。 この時間こそが、ジェイドが戦場で国の為に戦うふりをする理由だった。 この後には皆疲れ切って各々の陣営へと戻り、やがて撤退していく―――――その時に、ジェイドはいつも死体を回収している。 危険が全くない訳ではなかったが、成果を上げるのに実に多くの犠牲を要するフォミクリーの被験者を生体で集めることの難しさに比べれば随分と楽なものだ。 今日でこそ腕を少しばかり抉られてしまったが、この程度ならば安いもの。 そうして、ヒーラーに治癒を依頼するのさえ煩わしくて自分で処置をした腕を、まんじりともせずに見つめる。 ヒーラーに頼らないで治すつもりだから、この深さだと痕が残るだろう。 これをあの男が見たのなら、もしかすると無理矢理にでもヒーラーの元へ引きずって行くのだろうか? 自分の心の内に入る事を許した者には、とことん甘い彼の事だから。 この『死霊使い』でさえも大事だと言って、この身を抱きしめてくれるのだろうか――――――。 幼いあの頃と同じように、笑って。 この汚れた手を取って、そして、この紅を綺麗だと、褒めてくれるのだろうか? (いえ…そんな訳がありませんね) そこまで考えて、ジェイドは即座にそれを否定した。 つい先日、フォミクリー研究の報告の為に宮殿を訪れた折、彼は幼い日とは真逆の眼差しを向けてきたのだ。 だから…もはや優しい目を向けられる事は永遠にないだろう。 しかし、そのせいだろうか、最後に優しく触れられた時の事を、妙に思い出してしまう自分がいた。 いつか別れる相手だから、仲良くなる必要はない。 そう思っていたのに、彼はずかずかとジェイドの心の中に入ってきて、いつの間にか居座ってしまっていた。 屈託なく笑いかけ、暇を見つけては声をかけてきて。 あの雪合戦の日からジェイドの体が常々低体温であることを知って、以来さり気ない風を装って、すぐ近くまで近付いてきたり触れてきたりさえするようになっていた。 そして、それを不快だと感じなくなってきている自分自身に、幼いジェイドは随分と戸惑った。 優しい温度が、何故か嬉しくて。 その時にはその感情の正体にさえ気付けなかったけれど、人の温度に安堵を覚えたのは、きっとあれが最初で最後だ。 何故、こんなにも心地良いのだろう――――そう考えるようになって程なく、彼と別れる時がやってきてしまったのだ。 「――――――ジェイド」 過日の戦果報告、そのついでにフォミクリー研究の報告をと陛下を訪ねた帰り、やはり彼に出会ってしまった。 フォミクリーが何たるか。 自らの父が何を望んでいたのか。 それを知ってからの彼は、やはりジェイドに以前と同じような態度をとらなくなった。 それが当然の事であると分かってはいたけれど―――――――。 こうして正面から、あの優しかった空色の瞳が厳しく細められているのを見せられると…やはり居心地が悪くなる。 憎まれる研究でもあると理解していたはずなのに、どうして苦しいのか。 理由は分かっていたけれど、認めたくなかった。 「何か、御用でしょうか?」 「……………お前、もう分かってるんだろう?その研究はもう、」 咎めるような彼の視線が、ひどく痛い。 だが、それだけのことを自分がしたのだと思えば、この痛みを受け入れなければならない。 漠然と、そう感じた。 しかし、この澄んだ蒼に正面から見つめられることだけは、どうにも耐えられそうになかった。 どうせ見せ付けられるくらいならば、この目を潰してくれればいいのに――――――…。 そうすれば、いっそ憎んでいるかのような彼の目を見ずに済むのに。 「失礼します。ピオニー殿下」 そう言ってから優雅に一礼をして、ジェイドは彼の目から逃れた。 あの目を見ると、思い出が故郷の雪のように消えて行くような気がして。 我ながら馬鹿げた思考だ、とジェイドは自らを嘲るように笑った。 +反省+ |