[甘い痛みに、まだ] せわしなく動く男の手を、少年―――少年から青年への過渡期らしい少年が、テーブル越しに眺めている。 背格好、顔立ちは大人といっても過言ではないが、どこか輝いているように見える熱心な碧の眼差しと時折みられる外見の年齢に似つかわしくないであろう子供じみた所作が、彼を外見よりもずっと幼く見せていた。 「ルーク。そんなに近くにいると、クリームが飛びますよ」 自分の手を見つめたまま、瞳が殆ど移動しない少年を見て、男は苦笑を浮かべる。 生返事をするあたり、あまり聞いてはいないのだろう。 その様子を見て、男は早々に嗜めることを放棄した。 かき回していたボウルの中には、綺麗にツノが立った生クリームが入っている。 男の作業は、ひとまずひと段落したらしい。 テーブルの上の「作品」の製作者から直々に苦言を受けた少年―――ルークは、ボウルの中に気をとられながらも、男の苦言について少し考えた。 考えている間に、男は生クリームをかき混ぜるのに使った器具についたクリームを軽くなめ、ひとつ頷いてから流しへと投げている。 その行動を見て分かるように、既に生クリームはあわ立て終わっていた。 それなのに、今更クリームが飛ぶという注意をするのは、無意味なことではないだろうか。 ささやかに、そのことを意見として延べると、男は口元だけで器用に笑ってみせた。 「おや、言い訳ですか。―――――半分、期待していたのでしょう?」 「……違うっつの!」 実際少し飛んでくれば幸いと考えていなかったわけでもないが――――それをこの男に言われると、妙に癪だ。 それは、年齢的な差や性格的子供っぽさなどではなく、単にこの男の気質による。 一回りどころでなく年上のこの男は、年齢に似つかわしくない―――いや、全く見合っていない、人を小ばかにしたり神経を逆撫でするようなことに多大なる労力を割く、大変困った性格の持ち主だ。 そんな、尊敬するにできない年長者にからかわれては、やはり面白くない。 しかしそれでも、この男の傍から離れないのは、やはりそれ以外の要因があるからなのだ。 その理由は、精神的に幼いルークは分かっていない。 「えっと、」 躊躇いがちに口を開けば、それまでのおちょくるような口をすぐに引っ込め、静かにルークの言葉の続きを待つ姿勢に入る男。 手は相変わらず、「作品」の完成に向けた下準備の為に動いているのだが――――眼鏡越しの紅は、幼子を眺める親のような、そんな穏やかさを帯びている。 その温もりに後押しをされるように、ルークの口は少しずつ、理由という言葉の羅列をつむぎ出した。 「俺…完成したものはよく見てたけど、出来るまでって、見たことがなくて」 「―――――まぁ、お坊ちゃんですからねぇ」 ルークの弁明に、男はひとりごちる。 確かに、少なくとも王族に連なる公爵家の子息に調理場でのケーキの製作過程など、見せる筈もない。 料理好きか物好きならともかく、自分が使用人ならば見せようとすら思わないだろう。 「でも、すげぇのな!生クリームが、混ぜてるだけであんな風になるなんて」 「…あわ立てたんですよ」 「よくわかんねーけど、びっくりした!」 冷静な男の細かい指摘など聞いてはいないようで、ルークは輝かんばかりの眼差しを完成したクリームの方へと向けている。 そのうち指などが伸びてきそうだと感じた男は、興奮しきりの子どもを差し置き、さっさと作業を完了させることにした。 あわ立てたクリームを傍らに置き、皿を出す。 それからテーブルの邪魔にならないところに置いてあったメイン――――シフォンケーキを眼前にもってきて、なれた手つきで切り分ける。 なまじやわらかな感触である事と人数的な理由から、六等分だ。 普段はこんなものは作らないのだけれど、甘いもの好きであることを知っている故郷の妹が、立ち寄った際にこれが美味しかった、と言っっていたのだ。 軍での激務、仲間との旅、と忙し過ぎてついぞその機会がなかったのだが―――旅の合間、たまたまこの街に足止めを食った。 交易に丁度良い場所だったために、市場を見れば妹の言っていた材料全てが揃っていて、思わず男はそれらを買い込んでしまっていた。 今日の料理当番が自分であったのも、思えば何かのめぐり合わせだったのかもしれない。 縦に長いから倒れぬように、と、予め横倒しにしたシフォンケーキの断面は、ふっくらと柔らかであることが傍目にも分かる。 男は、自らの髪色にも似たイエロー・オークルの焼き色を半ば隠すようにして、クリームを無造作に落とす。 そして、何処から出したのか、小さなミントの芽をそのクリームの上にそっと置いて彩りを添えた。 「これ、その辺で売ってるやつみたいだ」 「ははは、ありがとうございます。初めて作った割にはうまくいったようですね」 何かにつけて妙なこだわりと完全性を求める男が失敗をしている姿など、ルークは今まで見たことがない。 その上外見に似合わず恐ろしく甘いものが好きで、菓子に関しては仲間の一人であり一番の料理上手でもあるアニスに比肩するかそれ以上の技能をもっている。 男は、同じ作業を五度繰り返してすぐに作業を完了させた。 初めて作ったシフォンケーキの完成だ。 邪魔だからと束ねていた髪をほどき、つけていたエプロンをはずしてから、ケーキに目が釘付けの子どもに気づく。 「……先に、食べてみますか?」 それなりに自信はあるが、確かに味は気になる。 味見代わりにどうだろうと提案してみたら、存外にルークは喜んだ。 ――――――この屈託のない笑みを見れるようになったのも、本当につい最近のように思える。 うまい、とだらしのない顔を隠そうともせずに笑う子どもを見て、男も思わず破顔した。 彼のいきいきとした表情を見ていると、この旅がもうすぐ終わりで、彼の師との決着も近いという事を忘れそうになる。 実際、厳しい旅の中でこのような穏やかな時間を過ごす日がこようとは思いもしなかったのだから、仕方のないことなのかもしれないが。 ああ、久しぶりにこんな顔を見た気がする。 表現しがたい感情に襲われて、男はその場に立ち尽くす。 近頃はつらそうな表情や何かを押し隠したような表情が多かったから、尚の事、ルークの笑みには胸が締め付けられる。 痛いのだか、苦しいのだか分からないこの感覚は、この年になるまで全く覚えのないものだったが――――それの意味するところは考えたくなかった。 この子どもが、下手をすれば決戦を前にして音素に分解されてしまう可能性があることなど。 そんなことを考えずに、日々を過ごしたいとさえ思う。 しかし男はこの、外見に反してこの世界に生を受けてたった7年の少年を生み出した技術の考案者である。 考案者である男は、子どもが迎える最期がどんなものであるかを、一番よく分かっていた。 模造品であるが故に、彼は形あるものは何も残さずに消えていく。 そして、その時間が刻一刻と迫っている。 今こうしてケーキを頬張り微笑んでいる事さえ、奇跡のようなものだ。 本当ならばとうに消えてしまっているかもしれない命だというのに、師との決戦を前にして、何とか永らえている―――そんな状態。 少年自身もそれを分かっているのが尚、男に説明のつかない感情を与えている要因のひとつだった。 「初めてとか、絶対嘘だって。超うまい」 「そうですか?私としては、もう少し膨らむものだと思っていたので多少不満は残るのですが」 「しっとりしてて、俺は好きだな」 唐突に声を上げたルークに応じながら、妹が作ってみせたシフォンケーキを思い出す。 あれは、もう少し膨らんでいたような気がしたのだ。 人によって多少変化があるとはいえ、シフォンケーキの命はあのふっくらとしたやわらかさだ。 確かに自分が作ったものもやわらかいだろうが、ふくらみが足りなかったせいで、普通のものよりもしっとりしている。 それでも、ルークはこちらの方が好きだと笑った。 男には、それだけで十分だった。 そうですか、ともう一度答えてから、男も自分の近くにあった一皿にフォークを突き立てる。 小さいかけらを口に入れると、程よい甘さと、しっとりした感じのするケーキの食感が口腔に広がった。 確かにこれはこれで悪いものでもないらしい。 いつも完璧を求めすぎるきらいのある男には、その事実が逆に新鮮に感じられた。 「――――そうですね。これはこれで、いいのかもしれません」 ややあって、男は苦笑気味に答えた。 他愛のない会話のひとつさえ、男には惜しい。 この言葉のひとつひとつが、残り僅かな時間しか残されていない少年の胸に残るのかもしれない。 そう思えば、一言でも多くの会話をしたいと思うのだが―――――彼に遺せるのがその程度しかないのが、惜しく、そして悔しい。 何故、記憶しか残せないのか。 作り出したのが自分だとはいえ、その事実が何より男にとって苦しかった。 「なぁ、ジェイドー」 そう、無邪気に男の名を呼ぶ子どもの声は、近い将来聞けなくなる。 彼もまた、この会話のように人の記憶にしか残れない存在なのだと思うと、彼の末路と同じくらい苦しかった。 +反省+ |