[邂逅] ――――――彼は、自分のしている仕事に釈然としない何かを感じながら生きてきた。 ただ生まれた街で一生を終えたくないという思いだけで帝都へとやって来たはいいが、特に何かを成したいという訳でもなく、惰性のまま手近な職に就いた。 たまたま、募集の広告が目に入ったから。 ただ、それだけだった。 「兄さん、アイデアル1つ」 「はい、かしこまりました」 折り目正しく会釈をし、笑みを浮かべ、彼は拭いていたグラスをことりと棚に収める。 そして、言われたカクテルを作る為にロックアイスをいくつかグラスへと入れ、色々な種類の酒が収まっている棚から、カクテル「アイデアル」を作る為のボトルを取り出した。 仕事を始めて程ない頃、筋はいい、とマスターに褒められたが―――――マスターの言う、筋「は」という部分がどうにも引っかかっていた。 クビにならないのだから、仕事の姿勢や作るカクテルには問題はないのだろう。 だが、何かが足りない。 そう、マスターは言っているらしかった。 「―――――お待たせしました」 店に入りたての頃、マスターからみっちりと叩き込まれた流れるような動作で、彼は注文をした男の目の前に、注文のカクテルを差し出す。 カクテルを注文したのは、綺麗なフェア・ゴールドの髪を肩ほどまで伸ばした青年だ。 先ほど注文の声をかけてきたような気さくな物言いとは裏腹に、青年は思いのほか優雅な手つきでグラスを手に取る。 「――――いい色だ。基本がきっちりできてる証拠だな」 「……?ありがとうございます」 にっと笑いかけてくる青年の言葉を不思議に思いながらも、彼はいつもの接客態度を変える事なくそれに応じた。 服装は、一見するとラフな姿だが――――このグランコクマの酒場で働く彼からすれば、青年が一介の貴族程度の人間ではないのはすぐに分かった。 バーの暗がりでも分かる、上等の生地に見事な仕立て屋の仕事の賜物だろうシャツや上着は、着崩していてもその気品を失ってはいない。 いや、青年自身の雰囲気もあるのだろう。 気さくな男を装う青年は、しかしどう見ても何処かの貴族の馬鹿息子とは思えぬしっかりした男にみえた。 「ああ、やはり外で飲む酒は違う」 会釈をしてまた雑務に戻った彼の耳に、青年の独り言のような声が入ってくる。 年齢不詳だが、家からあまり出してもらえない身分なのだろうか――――その声音は、いやに実感が篭っていた。 変わった客だ。 そんな事を考えながら青年を、失礼にならない程度にちらちらと見やっていたら、何度目かでその視線ががっちりと合ってしまう。 すると、青年は先ほどの笑みとは違う、何処か心の奥を見透かすような透明な笑みを浮かべた。 「――――この酒」 「、何か…失礼をしましたでしょうか」 くい、とグラスを持ち上げた青年に、背筋がひやりとする。 今まで通り作ったつもりなのだが―――――何かまずいことをしてしまっただろうか? 慌てて手にしていたピックから手を離し、タオルで手を拭くと、青年の前へそっと歩み寄る。 戦々恐々とする彼とは裏腹に、しかし青年は悠然と微笑んだまま、グラスを僅かに傾け。 「氷の具合、酒の配分、攪拌の具合――――全て基本をきっちりと守った模範的な出来だ」 「………は」 褒めているのだろうか。 しかし、口調はとてもじゃないが褒めているようには思えない、静かな語り口だ。 「………………俺の親友に似てる。一つの決められたラインから、一切外れようとしない―――――いや、外れられない所か」 「………」 「基本を守るのはいい事だ。何を習得するにしても、基本が出来なければ応用も発展もできない。だがな……少しくらい、自分を出してもいいんじゃないか?」 苦笑いのような青年の笑みは、自分よりも若い筈なのに――――妙に老成してみえた。 経験の差なのだろうか―――青年は、彼以上に多くのものを、広いものを眺めているかのような物言いで、彼を飲み込んでいった。 筋だけはいい。 あのマスターの言葉は、いつまでも「自分」というものが、自分の道が見えずにただ無為に仕事をこなす彼への警告だったのかもしれない。 バーテンという仕事を惰性のまま選んだものの、この仕事もそれ以外の仕事も、技術以上に大切なものがある。 マスターに教えられるままに続けるのもいいだろう。 だが、それだけではいけないのだ、と、青年から教えられた気がした。 「―――――はめられた枠から出られないのは俺も同じだ。改めて、自分のやらねばならん事を突きつけられた気がしたよ。……ありがとう」 「――――いえ」 「また機会があれば来る。」 ロックに薄められてきていた残りのカクテルを飲み干すと、青年は代金よりも多めのガルドをグラスに挟み、席を立った。 「次に来る時には、「お前の」酒を飲ませてくれよ」 振り向きざまに笑いかけた青年の笑みは、既に先ほどの気さくな若者のものに戻っていた。 何を背負っているのかは分からないが、何処の貴族かも知らないが―――――その笑みだけで、何かとてつもなく大きなものをその肩に乗せていることは分かった。 バーでは、色々な人間に出会う。 上司にこってりと絞られ、怒りも露に席につく若い仕官。 妻と仲良く肩を並べ、軽食を取りながら笑っている男。 そして、たった一人でやってきて、言葉もなくカウンターへと座るのは、いつだって年齢も性別も身分も、さまざまな者ばかりだった。 恋人に振られて自暴自棄になっている若い男や、酒などたしなんだこともなさそうな女。 老人だっている。 だが、カウンターに座った客で最も印象に残ったのは、あの青年だけだった。 マスターに言われた言葉の意味を教えてくれた青年。 彼は、青年に出会った事で仕事に対する姿勢が変わっていった。 そして数年も経つうちには、二つあるバーカウンターの一つを任される程に認められ、マスターからは「筋以外の何かも見つけたようだな」と肩を叩かれて。 気づけば、バーテンという仕事が自分にとって一番の仕事だと思えるようになっていた。 病床に伏している現皇帝の地位が危うい、といった噂が流れて始めている今のこの時世だが―――――何年か前に出会ったあの青年は、今頃何をしているのだろうか。 すっかり次代のマスターとまで言われるようになった彼は、いつものようにグラスの曇りを拭きながら、店の入り口を眺めながら考え事をしていた。 現皇帝には、数人の子がいる。 それぞれ母の違う王子達だが――――いずれも現皇帝と同じ姿勢と思想を持つ者ばかりだと聞いた。 唯一、最も帝位からは遠いという末の王子が、彼らとは全く逆の考えを持っているというが、恐らくはその王子が帝位に近づく事はないだろう。 何せ、その王子は後ろ盾の脆弱さから、かつて政争に破れ、遠いケテルブルクに軟禁されていたと聞く。 今更帝位争いに名を連ねたとて、長い間均衡を保ってきた王子達の力関係が変わるとは思えなかった。 一部の民衆や軍人は、その末の王子を擁護する立場だが―――――それでも相当の努力と運がなければ、帝位などは遠い空の上。 戦争や隣国とのにらみ合いに疲れ果てている国民の姿が、バーにさえ滲み出ている。 いや、バーという場所だからこそ、そんな姿が見られるのかもしれない。 あの青年も、安定しないこの時世で、何かと必死に戦っているのだろうか――――――…。 からん、と店のドアベルを鳴らしながら入ってきた若い軍人に「いらっしゃいませ」と笑いかけながら、バーテンはずっとそんな思考にふけっていた。 「……アイデアルを」 静かにカウンターへと座った青年軍人は、すっと通る声であの時の青年と同じものを注文した。 一定以上の階級と思われる軍服を着た彼は、軍人らしからぬ理知的な眼差しをしている。 眼鏡をかけているからという理由ではなく、何か一般的な軍人とは違ったものを感じる人物だった。 丁度、緑が色を失っていく秋の草原のような――――落ち着いた色をした長い髪も、軍人らしくない。 髪を伸ばすも切るも自由なのは分かっているが。 何処か疲れた様子の青年軍人の様子を見ながら、バーテンはこの何年かですっかり手に馴染んだシェイカーでカクテルを作り、そっとグラスへと注ぎ入れる。 お待たせしました、と声をかけ、眼前へと差し出すと―――――青年はすぐには手をつけずに、グラスをじっと見つめた。 少ししてからそのグラスへと口を近づけ、一口。 そして何を思ったのだろう、苦笑を浮かべてそれをまたテーブルへと戻した。 顔色は全く変わっていないから、思いのほかアルコールが強すぎて飲めなかった、という訳でもないだろう。 ならば何故、彼はグラスを置いたのだろうか? 「どうか、されましたか?」 自分の作るものには、あの時よりもずっと自信がついた。 わざわざ自分が作ったカクテルがいい、と指名されることさえある。 それが万人の口に合うかといえばそうではないが、このグランコクマでそれなりに通用してきた腕だ。 だから、何か別の要因があったのだろうか、とあたりをつけて、バーテンはそっと彼の前へと立つ。 「ある方から、ここで働いているというバーテンのカクテルの話を聞いて―――――今日来たんです」 言って顔を上げた青年は、淡いバーの光でもよく分かる、透けるように白い肌をした綺麗な男で―――顔を上げたその一瞬、バーテンは言葉を失った。 その新雪を思わせる肌色と砂色の髪とは全く相反した紅の瞳も、いやに印象が強い。 眼鏡の奥でその紅を薄く細めながら、彼はあの時の青年と同じように、グラスを小さく揺らして持ち上げた。 「今はどうなっているか知らないが、お前は俺が昔行ったあの酒場の酒に似ている、と。笑われましてね」 「!」 「どんなものかと思って来てみたのですが―――――やはりあれの言う事はあてにならない。一見なんのことはない、ただのカクテルだというのに……私とは大違いだ」 「…………」 かける言葉が見つからなくて、バーテンは困ったように目をさまよわせる。 だが返答を求めていた訳ではなかったのだろう、青年軍人は特に気を害した風もなく、更に一口カクテルを飲んだ。 「――――枠から飛び出していく事がいいことなのかどうか…私には分からない。私は私なりに、力を尽くしてきたつもりだというのに――――それでは足りないと言う。」 横へと視線を逸らした瞬間、青年の髪の一房がするりと肩から落ちていった。 バーの灯りを反射してちらちらと輝いたその髪にも頓着することなく、青年は小さくため息をつく。 年の頃は――――あの時の青年と同じ程度だろうか。 誰のことを言っているのかわからないが、同じ酒を注文した事、言っている内容がまるであの時の青年の――――いや、あの時の青年の言っていた人物のように思えて、バーテンは思わず声を上げていた。 「―――――以前、貴方と同じその席に座ったお客様が、同じカクテルをご注文になって、こんな事を仰っておられました。」 「……アイデアルを、ですか」 「はい。当時駆け出しだった私の作ったアイデアルをお飲みになって、『俺の親友に似てる』と。私が基本から外れないままに作ったカクテルが、一つのレールから外れることのできないご友人に似ていると、笑っておられました」 「―――――その方は…今は?」 「あれから一度もこちらにはいらっしゃっていませんが……何か、大きなことを成さなければいけないと、決心を固めておられました」 何故か、この青年軍人を見ていると彼を思い起こさせる。 何をしようとしていたのか、一介のバーテンの自分には分からないけれど――――――。 思索に耽っていてふと気づくと、青年は既にカクテルを飲み終えていた。 「…………その方も、私の友人に似ています。どんな苦境にあっても、流されることなく前に進もうともがく。強い意志をお持ちなのでしょうね」 ふっと微笑むその顔は、店に入ってきた時の印象よりもずっと柔らかに見える。 きっと、その友人の姿でも思い出しているのだろう。 「―――――私も…あなたの作るカクテルが変わったように、変わる事ができればいいのですがね」 「…え」 「仕事がひと段落ついたら、また来ますね」 やはりあの時の青年と同じように、一杯だけで席を立ち、代金を支払うと、軍人は来た時と同様の足取りで、バーを後にした。 +反省+ |