[金の狼 4]



























『くそッ…なんで開かない!?』

全力で、何度体当たりをしても全く開かない扉に、ピオニーは焦りをにじませていた。
彼は譜術師だ―――――そうだと分かれば、鍵は開いているのに開かないこの扉の不思議も、片付けられるような気がする。
何か不思議な力で、扉が開かないようにしているに違いない。

しかし、これが単純なからくりによるものなのか、それとも狼に過ぎない今のピオニーにはどうしようもないものなのか―――――それがよく分からない。
譜術師は総じて複雑な思考回路をしていて、特に優秀な頭脳の持ち主が多かったというから、もしそうした能力を活用したからくりなのだとすれば、ピオニーには解決不可能。

だが、最初から解決不可能だと諦めてこの家に留まっていれば、ジェイドは永遠に帰ってこない気がした。

とにかく…と、必死に体重をかけて扉に体当たりをしているうちに、ピオニーの金の毛並みに血が混じり始め――――さすがの彼も、痛みから少し動きが鈍くなっていく。

―――――このままじゃ…!

次第に焦りが増してきたピオニーの視線が、一点ではたと止まる。

―――――あそこは…ジェイドの研究室…

どうやら、開かないのは外に出る為のこの扉だけで、他は簡単に開くらしい。
その証拠に、ピオニーがぐるりと部屋を見回してみると、寝室から何からなにまで、ピオニーの体当たりの衝撃で、全ての扉が開いてしまっていた。
その中でも、いつもぴったりと閉まっていたジェイドの研究室の中がどうにも気になってしまって―――それに、何か外に出る為のヒントがないかどうか確認する為に、ピオニーはそっと、研究室の扉を鼻先で押し開けてみる。

…部屋の中は、譜術師らしい不可解な装置や本、それから研究者らしい科学的な器具、書籍とがごちゃまぜになっていた。
広い机の上を見てみると、そこは紙だらけで――――…何か扉を開けるのに役立ちそうなものは、何も置いていない。

『はずれだったか……………ん?』

諦めて机の上にかけていた前足を地に戻すと、机の下に光る物が見えて、ピオニーは椅子を押しのけその光源を探る。
―――――と、奥は広い作りになっていたのだろう――――大振りの剣が見えて、ピオニーは驚いた。
暖炉の上に飾り物に過ぎない槍やら剣やらがあったのは知っていたが、机の下などに剣を置くとは―――護身用のつもりだったのだろうか?
疑問に思いながらもそれを引っ張り出してみると、それは案外狼の姿のピオニーにも持ちやすく、また譜力でも込められているのか、ある程度身から離しても、自分の意思で振り回すことができた。
誰が作ったものかは知らないが――――これは使えるかもしれない。
ピオニーはその剣の柄をくわえると、再度外への扉の前へと走っていった。



















■                           ■




















「久しぶりね、ジェイド」

「―――――…そうですね」
私は二度とお会いしたくはなかったのですが、と、いつもよりもずっと低い声で、ジェイドは言い返す。
その声音には常にある余裕がなく、古傷も痛んでいるのか――――…僅かに苦しげな表情をしている。
そんなジェイドの状態を正確に読み取ったかつての師ネビリム……否、ネビリムの姿をした魔物は、にぃ、と形容しがたい陰鬱な笑みを浮かべる。



「…苦しそうね。私のつけた傷が…痛むの?」

言うなり、彼女は腰の少し上あたりから生えている羽のようなものを、ばさ、と一振りする。
途端にその場には魔力による力の津波と強風とが起こり、ジェイドはそれに耐え切れず、小さく呻いた。

「―――――そんなものッ」

「この100年―――――辛かったでしょう?…苦しかったでしょう?」

まるで見てきたかのように、いやに実感の篭った声音で語る彼女に、ジェイドはふと、脳裏に自らの予測をめぐらせる。

確かに、この長い年月を一人で生きるのは、辛かった。
例えようもない程、苦しかった。
何度か、いっそピオニーと同じ場所に行って、この責任から開放されたいと、そう願ったことがあった。

だが、それは心の内だけでの葛藤で――――実際にジェイドを襲った辛い出来事というのは、同じ人間から、『赤い目の魔物』と勘違いされ、退治の対象となり続けた事であった。
確かに半分は事実なのかもしれなかったが、ジェイドは無駄な殺傷を避ける事と、このネビリムを見張る為に、この森の奥へと住むようになったのだが……どうやら、それが逆にジェイドが魔物であるという噂を広めさせたらしい。

戦いを挑まれれば、完全な力を取り戻せていなくとも、生きるために戦わなければならなかった。
そうして、結果的に皆殺した。

どこの国とも知れない、どこの勇士とも知れない、だけどジェイドからすれば弱かった人間たち。
この100年の間、心ならずも殺してしまった…自称『勇者』たる、少々腕が立つ程度のそうした人間達の恨みの声が、今もジェイドを苛んでいる。
ネビリムから受けた呪いの傷も辛いものだったが、同じ人間を殺すという行為も、虚しく、苦しいものだった。

そうした事象を、まるで知っているかのような彼女の物言いには、何か引っかかるものを感じる。

「…………封印は」

「ええ、解けかけていたの。私は完全ではないけれど、ある程度自由に動けていたわ。…といっても、ここ50年程度だけど」

「――――――…」

「おかげさまで、面白い物がたくさん見れたわ。人間を殺す貴方、自分で殺した人間を埋める貴方、私のつけた傷で苦しむ貴方。そして………付きまとってくる金色の狼と、とても楽しそうにしている貴方を。」

壊れかけていた錠前を見て、まさかとは思っていたが―――――…。

楽しそうに告げられた事実に目を丸くしながら、しかしジェイドはそれは表情に出さぬまま、じり、と下がった。
封印がとけかかっていたのは計算外だったが、実害がなかっただけマシだ。
そう思うことにして、ジェイドはともかく、目の前の『魔物』を倒す策を練る事に集中する。

ジェイドには、力は戻っても、失われたものがあった。
無理に寿命を延ばしていた為に――――常人よりも、そして外見よりもずっと体力が衰えているのだ。
だから、短時間で彼女を倒してしまわなければ、後はない。
そもそも、ジェイドは譜術師であるから、前衛の剣士がいて初めて全力で戦うことが出来る。
昔は、唯一友と呼んだピオニーがいた。
確かに、彼の遺した優秀な剣士の血筋――――マルクトの王子はい存在している。
今、マルクト王家には年若い二人の王子がいる。
ずっと王家の輩出してきた剣士たちの話を使い魔から聞いてきたけれど、あの家に置いてきた金色の狼―――第一王子ピオニーが、歴代の王族でも抜きん出て優秀らしい。
だが――――彼は今、何処かの馬鹿の施した呪いのおかげで、狼の姿。
それに、この戦いで、あのピオニーのように二度と剣が持てなくなるような怪我など――――ましてや死なせる事などできる筈もなくて。
協力を請いたいと思いながらも、無理やりに閉じ込めてきてしまった。

本当は、自分ひとりでは厳しいけれど。
本当は、協力してもらいたくて――――彼が受け取るかどうかも考えずに、つい、譜力を込めて狼の姿でも扱える剣を作ってしまったけれど。

『―――――ロックブレイク』

「!?」

彼女が話している間に、小さく唱えていた甲斐があった。
唐突に発動した譜術――――大地を裂き、周囲のものを呑み込み貫く「第二音素」という音素から組成される、比較的初級の術は、みるみる彼女を飲み込んでいく。
ジェイドからすれば初級というものだが、譜術それ自体が絶えた現在では、奇怪で恐ろしい妖術のように映るそれ。
だが、相手は百年前もジェイドのこの技を見ていた元師匠だ――――不意打ちを食らって驚きはしたものの、さしたるダメージは受けていないようだった。

しかし、それはジェイドも承知の上。
その譜術が発動し、それに巻き込まれている間に次の詠唱をはじめ、駆け出す。
同じ場所に突っ立ったままでは、ただの的だ―――――案の定、ジェイドがいた場所をめがけて、ネビリムは闇雲に炎の檻を出現させ、周囲を焼く。
炎―――第五音素の譜術「イグニートプリズン」。
これは上級譜術と呼ばれるもので、譜術師が大勢居た頃でも、そうそう使える者はいなかった。
それができるのは、このネビリムだから。
これが命中すれば凄まじいダメージを食らうものの――――闇雲であったために、ただそれは近くの木と土を焼き、いたずらに土を焦がしただけだった。

そしてようやく最初の一撃―――大地が割れた事によって起きた土煙が収まった頃には、ネビリムはジェイドの姿を少し見失い、そこに一瞬の隙が出来る。

その間にまた詠唱を終えたジェイドは、次の術を仕掛ける。

『フレアトーネード!』

丁度、ネビリムは自分が術を発動させた箇所にとどまっていた。
そこにそのままタービュランス―――風の音素による譜術だ―――を発動させると、炎の音素の名残で術に変化が生じる。
炎の竜巻――――それが、彼女を炎と熱風の嵐へと巻き込み、空へと放り出していく。









―――――ここで彼女が落ちてくるのを待っていては、自分は負ける。
久しぶりで、しかも体力が落ちた状態での譜術の連続使用は、思いのほか疲労が溜まり―――改めて、時間の無さを確認させられる。
既に体が重くなり始めているのを感じながら、ジェイドは自分が使える中でも最強の譜術を発動させるべく、低い声で詠唱を再開した。

息を整えている間すら惜しい。
彼女が体勢を整えてこちらに突進してくるのが先か、こちらが術を発動させ、彼女を沈黙させるのが先か。

(――――ッ間に合え…!)

ネビリムが、術の消失と共に炎から開放され、空中でその動きを止めた。
そしてすぐにジェイドの位置を確認すると、そこへ向かって落ちてくる。
師であった頃と変わらない美しく艶めいた口元は、僅かに動き――――ジェイドを葬るべく、詠唱をしているのが窺えた。

しかし、こちらの方が詠唱を終えるのは、早かった。
死霊使いの名の下に―――と、久しぶりの口上の後に、集約した音素をネビリムへと向ける。

『――――――ミスティックケージ!!』

素早く回避したとて、この術は範囲が広い。
間違いなく致命傷になる事が分かった上で、ジェイドは持てる力のほとんどをつぎ込んだ。
これが避けられてしまえば、ジェイドは援護なしに彼女と渡り合うことなどできず、間違いなく―――――死ぬ。

ジェイドはそれでもかまわないと思える程に、永い時を生きてきたが――――それでは、親友の愛した国がまず真っ先に焼かれるだろう。
この森はマルクト領であり、近くにある町といえば、マルクト帝国の町ばかりである。
民を、国を、これでもかという位に愛していた男の願いは、ジェイドが死ねば、全て水の泡となる。

友との約束を守る為、彼女を倒す為だけに…、この身を永らえさせてきたのだ。

そう考えれば、死ぬわけにはいかない―――――だが、この術がジェイドの最大の攻撃手段である以上、これが致命傷にならない限り、ジェイドに勝ち目はない。





「―――――っっ…!」

声にならない苦悶が、ネビリムの居た場所から聞こえてくる。
木や草が倒れ、土煙の舞う中で姿は確認できないが――――恐らく、直撃したのだろう。
むしろそうであってくれ…と、半ば祈りにも似た気持ちで、ジェイドは前を見据えた。

だんだんとクリアになっていく視界の中、確かに怪我を負った彼女の姿が確認できてきた。
だが―――――…そのダメージはジェイドの予測よりも軽いもので。

「………なぜ」

「………あら、簡単、よ」

致命傷とはいかずとも、最強の譜術士と恐れられたジェイドの容赦の無い一撃だ。
師であったネビリムといえど、さすがに血を吐き出し、よろめいている。
だが、それでも立ち上がり、微笑むだけの余裕が残っているのだ。
―――――その姿はあまりに予想外で、ジェイドは言葉を失う。

「――――元はあなたの音素を取り込んで魔性と化した身。出自の同じ音素による譜術を当てられた所で、私には思ったようには効かない」

「…………ネビリム…先、生」

「そうでしょう?ジェイド。貴方が暴走させた音素を私が吸収してあげたんだもの―――――予測できる事態であった筈」

静かに語る彼女の口調は、かつての優しく厳しかった師、ネビリムのものと全く同じで――――魔性と化したと理解していても、ジェイドは混乱した。

そうなのだ。
元はジェイドのせいで、彼女は魔物になった。
もしかしたら、ジェイドの方が魔物になっていたかもしれないのに。
町を滅ぼしていたのは、国そのものを滅ぼそうとしていたのは…もしかしたらジェイドだったかもしれないのだ。

「貴方なら分かるわよね?私がどうして魔物になったのか。貴方がそもそも――――――」

「ッ」

「――――身の丈に合わない譜術を使おうとしたせい。慢心していたせい。……違うかしら」

口元に優雅な笑みを貼り付けたまま、ネビリムはゆっくりと歩いてくる。
ゆらり、ゆらりと体を傾がせながらも、彼女の歩調は思いのほかしっかりしていた。

「!」

そして唐突に、彼女の右手が素早く空を切る。
何事かと思ってすぐに、ジェイドは腹が熱くなった。
彼女が手にしていたのは――――氷の刃。
手にそのまま張り付いた氷からは、真っ赤な液体が滴っている。

「――――――やはり『師』の語り口には弱かったようね、かわいい『ジェイド』?」

「…………ッぐ」

恐る恐る熱い部分へと指を伸ばしてみれば、そこからは生ぬるい液体の感触。
鉄の錆びたような鼻につく匂いは、自らの血に他ならなかった。
しかも、痛いというより熱い。
これは相当に痛手を負ったらしい―――――ジェイドは思わぬ失態に歯噛みしたくなった。
彼女の言った事の真理については考えないようにして、努めて冷静な思考をと、ジェイドはただひたすらに策を考える。

ネビリムの言葉は、正しい。
もともと同じ譜術士―――ジェイドが取り込んだ音素を利用しているジェイド自身とネビリムでは、確かに効果は薄い。
足止めや、ある程度のダメージを与えることはできても、致命傷まではいかない。
自分の使える最高の譜術を使っても、彼女に致命傷を与えることはできなかったのだ。
これを連続で使用すれば、あるいは可能性はあるが…その前に自分の体力が尽きるだろう。
…となると、やはり――――――…。

至りたくなかった、至るべきではなかった最終策に思考がたどり着いてしまったジェイドは、自己嫌悪に陥った。
ピオニーの助力…それが、今できる事の中でもっともネビリムに対抗できる可能性が高い。
だが、彼は家に閉じ込めてきた。
もしかしたら力ずくで飛び出してきているかもしれないが、それでも彼に危険な戦いに参加してもらいたくない。

だが、先ほどから遠くで聞こえてくる木々をなぎ倒すような音は、何なのだろう。
あれがピオニーである可能性もあるが―――――いや、考えるまい。
自らの予測を振り切るように頭を振ってから、ジェイドはゆっくりと口を開いた。

「―――――確かにあなたは私の師、ネビリム先生を素地とした魔物だ。先生の人格を真似る事は簡単だろう」

腹を押さえたまま、ジェイドはじっと魔物を見据えた。
蠱惑的な彼女の今の微笑みは当時にはなかったものの、いつも朗らかに笑っていた穏やかな師の面影が、色濃く残っている。
人の姿を素地として、人ならざる力と姿をも併せ持った今の彼女は、しかしもはや師ではない。

「だが、先生なら、私にこう言うでしょう―――――『マルクトを思うのなら、殺しなさい』と」

「随分身勝手ですこと」

「言っていなさい。私は宮廷譜術士にして、軍人。そして―――――皇帝の懐刀と呼ばれていた者」

声を出すたびに腹がどんどん熱くなっていく。
血の気もなくなっていく。
だが、ネビリムの姿をした魔物に、ジェイドはどうしても言っておかなければならないと思った。
そして、悔しいが、ピオニーがここに向かっているかもしれないという確信のない希望に縋って、時間を稼がなければならないと思った。

「赤眼の魔物と罵られようと、師を化け物に変えた最低な弟子と言われようと、そしてネビリム先生が殺せと言わずとも――――…」

動くことは危険だが、この距離では譜術の詠唱を始めては悟られる。
何も言わずに虚空より槍を喚び出すと、腹を押さえていた手も離して、両の手で構えた。
そして、強い眼差しで「魔物」を見据え、言い切る。

「私は、あなたを殺します。それが…100年前、剣を持つ事が叶わなくなったピオニーと交わした、『約束』ですから」

「…………………」

ネビリムの表情から、笑みが消えた。
ジェイドの決死の覚悟を悟ったのだろう――――何も言わずに、じり、と一歩下がる。
ここからが、本番だ。
互いにある程度のダメージを受けている状態だから、状況は最初とそう変わりない。

しかし、ネビリムも気づいたのだろう、だんだんと近づいてくる草木を掻き分ける音や木々の倒れる音がする方向を気にして、動けないでいた。





























がさッ!

「―――――!ピオニー」

『派手な音がしたからと思って来てみれば――――やっぱりここだったのか!』

草木の影からひょこりと顔をのぞかせたのは、やはりピオニーだった。
しかも、どうやって見つけたのだろうか―――――ジェイドの造った剣を背にのせている。

『!お前、怪我』

「……それより、前を見なさい、ピオニー」

狼ゆえに、血の匂いに気づいたのだろう――――見えない位置だったにもかかわらず、すぐにジェイドの負傷に気づくと、草むらから飛び出して、ジェイドの元へと駆け寄ってくる。
しかし、今は戦っている真っ最中だ。
自分にかまうな、とばかりに手を振ると、助っ人に現状を簡単に説明してやった。

『へぇ…これが封印されてた魔物か』

「―――――そうです。そして、どうやら私の譜術が思ったより効かないようで」

『分かった、俺が援護すればいいんだな?』

「……いえ、貴方が主戦力です。私はアレを足止めしたり、ある程度のダメージを与える事しかできません――――致命傷を負わせられないのです」

言葉が通じている事には気づいているのかいないのか、ピオニーはジェイドの言葉に目を丸くした。

『…待てよ!それじゃ、』

「心臓を狙ってください。私にも武器はありますが―――――なにぶん、腕力がありません。貴方の持つ剣ならば、貴方の意思で自由に動くでしょう。………きっと、心臓に届きますから」

精神力のようなものが剣の力の尺度になるのだが、ピオニー程ならかつてのジェイドの友であったピオニーと同等かそれ以上の力を発揮する事ができる筈。
説明すると、ピオニーは逡巡の後、狼の声で、うぅ、と低く唸り、了承を表明した。

「では、作戦はありませんが――――健闘を祈ります」

苦笑と共にジェイドが言うなり、ピオニーはだっと駆け出した。
ただの狼以上の素早さを持つピオニーの突進は、ネビリムを驚かせるには十分だった。
彼女が空中へと逃れようとしたその瞬間、ピオニーは飛び上がり、背にある剣がふわりと浮いたかと思うと、その切っ先の向きを変える。
そして、剣はピオニーの意思通りにネビリムを襲った。

「……ぅぐっ!?」

たん、と軽い音を立ててピオニーが着地する。
しかし剣は相変わらず切っ先を魔物に向けたままで、薙いだ際についた血糊を滴らせていた。
それをくるんと一回転させてまた元の位置へと戻すと、腹を押さえ凄まじい形相で落ちるように降りてきたネビリムから逃れるべく、左方へと跳躍。
その攻防の間に詠唱を終えていたジェイドが、そこを目標点に譜術を発動させた。

『グランドダッシャー!!』

ピオニーが避ける事は戦況からして明らかであったことと、彼がジェイドに目配せをしていたのが見えたからこそ、少々派手な術を用いた。
チャンスだ―――――そう、言いたかったのだろう。
だからこそ、しばらく動きが止まるであろう術を用いて、ピオニーの次の攻撃へと備えた。
案の定、ピオニーは既に剣に力を込め、攻撃態勢で後方に待機している。

狼の姿とはいえ、コンビネーションの相性の良さは、まるであのピオニーであるかのような錯覚に陥る。
互いに考えていることや次の戦略が分かるのだ。
恐らく、ピオニーは次に心臓を狙う。
元より鋼のように硬い体だ、一撃で成しえるとは彼も考えていないだろう。
だから、ジェイドはピオニーが飛びのいたその隙に、今度はもっと強力な譜術を叩き込むつもりでいた。

「ちぃ…ッ!」

『だぁああああああッ!!』

力を込めたピオニーの重い一撃が、ようやく譜術の効果が切れて開放されたネビリムへと叩き込まれる。
正確に心臓を狙った突きは、ネビリムを蒼白にさせた。
だが、一瞬苦しそうにしただけですぐに剣を跳ね除け、胸を押さえてそこから飛びのく。
そしてどうにか体勢を整えようとしている所に、今度はジェイドは炎の譜術『フレイムバースト』を食らわせた。
場所が特定しづらかったので、急遽、威力は落ちるが早くに発動できるものに変えたのだが、ピオニーはその間にまた間合いを詰め、再び斬撃を開始する。

「―――――受けよ、無慈悲なる白銀の抱擁―――――」

詠唱の声が聞こえたのだろうか、それとも、ジェイドの周りを取り囲む冷気を伴った音素の集約を察したのだろうか。
ピオニーは、ぴくりと耳を動かしたかと思うと攻撃を中断し、即座にその場から離脱する。
その行動に何を思ったか、ネビリムはまさか、という風な表情でジェイドを見た。
だが、遅い。

『―――――アブソリュート!』

氷の塊が突如出現し、ネビリムの動きを束縛する。
普通の人間は勿論のこと、頑強な魔物ですら、この氷縛が解けるのと同時に、粉砕されるという――――その昔書物で知った、禁譜と呼ばれる譜術だ。
その上、先ほどは高温の炎にさらされたネビリムの体は、いきなり真逆の絶対零度の氷に囲まれて―――術同士の相乗効果でダメージも大きい。
案の定、彼女が氷縛から開放される頃には、粉砕は免れたものの―――――その体を守っていたいくばくかの防具が、熱疲労でひび割れ意味を成さなくなっていた。

物質として構成されている体という訳ではないけれど、ネビリム自身にも結構なダメージだったようだ。
矢次早にやってきたピオニーの剣を避けそびれて、肩を貫かれる。
そこからあふれるのは、人間であった折の名残なのか、赤黒い血潮。

その有様を冷静に観察しながら、ジェイドは先ほど出現させた槍を手に再び詠唱を開始し、終わらないうちに槍を彼女へと投げる。
ネビリムはよろけてはいたが、さすがに大した腕力もないジェイドの投げた槍を回避できない訳もなく、嘲笑と共にそれを止めようと手を伸ばした。
そしてその槍めがけ、ジェイドは最後の力を込めた術を発動させるべく、叫んだ。



『サンダーブレード!!!』

実は、槍はネビリムに攻撃を加える目的ではなく、避雷針としての意味と、目標点としての意味で投げただけだった。
ピオニーの攻撃で気力を、体力を削られて思考力の低下していた彼女には、それが読めなかったのだろう。
槍の到達と同時にやってきた電撃をまともに食らい、動けなくなった所に槍までもが彼女の体を貫く。
それは胸ではなく腹で、浅いものだったが―――――電撃は金属であるその槍へと集中し、なおもネビリムを痛めつけた。

「ピオニー!」

『分かってる――――!!』

電撃が収まっても、痺れからか、動けないでいるネビリムの元へ、ピオニーはたっと軽い足取りで舞い降りる。
目の前に、最後の引導を渡しに降りてきた金色の狼に何を見たのか―――――彼女は、ふっと軽く笑ってみせた。

「……狼……そう、貴方は昔から猛々しい獣のような男だった。剣を携えたその姿、よく似合っていること」

「……?」

「分かっていないのならいいわ。」

それだけ言うと、動く力も残っていないのか、瞳をゆっくりと閉じていった。
気配で分かる―――――だまし討ちをするとか、そういう力すら、もはやこの魔物には残っていない。



そんな事を感じながら、ピオニーは一呼吸を置くと、剣にありったけの力を込め―――――――心臓めがけ、一刺しにした。
不思議と血は出ず、びくり、と一瞬魔物の体は震え……そして、完全に生命活動が停止する。

その一連のやりとりを見守っていたジェイドも、ネビリムが動かなくなったのを確認すると、ゆっくりと近づいてきて、その死亡を確認した。

「―――――祠に、棺が残っています。ボロボロですが…それに収めましょう。あぁ、剣はそのままに」

それだけを言うと、ジェイドは長い前髪で瞳を隠してしまう。
彼女は、異形の姿になってしまったが―――――ジェイドにとって、大切な師だったのだ。
思う所があるのだろう。
髪に隠れて見えない下の表情を想像して、ピオニーはなんだか苦しくなった。









棺にネビリムの死体を納めると、ジェイドがそれに再び封印を施した。
既に心臓を貫かれ、力も大分使い果たしてしまっているであろうネビリムが復活できる筈もないとピオニーは思ったのだが――――ジェイド は意味深に微笑むだけで、詳しい事は説明してくれなかった。

そして、ジェイドはそのまま倒れて、動かなくなった。






















+反省+
長くなりすぎて終わらなかった…ぐはぁ
あとちょびっとだけ続きます…完結編という事で
ネビリムせんせーの言葉の意味は概ね予想通りだと思います(笑)

2007.2.21