[金の狼 3] 「この家は特殊なまじないがかかっていて、森の中では最も安全な場所なんです。―――――といっても、私が施したものではないのですが」 苦笑しながら、ジェイドは疲れた風な様子でソファへと腰を下ろした。 青の瞳が鋭く自分を見つめているのを理解しているのかいないのか、その表情は変わらない。 先ほどの言葉の理由を――――――何故ジェイドが魔物と呼ばれたのかを、ピオニーは知りたいと思った。 だが彼は黙して暖炉の炎を見つめるばかりで、なかなか語り出そうとせず。 焦れてピオニーが唸り声を上げた所で、ようやく彼はこちらへと顔を向ける。 『ジェイド!いい加減に――――』 「…………あなたの弟はなんとか森を出たようですね」 『!?』 一体何を根拠に言っているのか。 だが不思議と確信の篭ったその言葉が嘘だとも思えず、苛立ちを露にしようとしていたピオニーは、不思議そうにジェイドを見つめる。 そんな表情を見て何を思ったのだろう、ジェイドは初めてその顔にあからさまな感情を…僅かに哀しみを滲ませて、笑った。 「"ピオニー"…この名前を呼ぶのは……実は、100年振りでした」 『…何を言って…?』 「でも、貴方を最初に見た時…そう呼びたくなった。金色の中で輝くその海色の瞳は、かつての友人を思いださせるものでしたから」 かつての友人―――そう言うジェイドの顔は、何かを懐かしむような、しかしそれ以上に何かに堪えているようで。 「幼少の頃、貴方はこの森に住む紅眼の魔物に関連する絵本を読んだことがあるでしょう――――――あれに描かれている『友』… それは、私の事なんです。」 『!!?』 「人の摂理に逆らい、この百もの年月を生きる為に術を施し…この年まで一人でこの森に住んでいました。」 『ちょっと…ちょっと待て!じゃあ、お前…』 王族に復讐しようとしている魔物なのか――――? …とは、口にすることができなかった。 こんなに人間じみていて、今でさえピオニーにひとかけらの害意も見せていないこのジェイドが、まさか自分の血族を恨む魔物だなんて。 そんな風には思いたくなかったのだ。 「―――――あの絵本には史実との相違点があります。……本当の魔物というのは、王を恨んで魔と化したという私ではなく、 音素の暴走によって魔物となってしまった私以外の人間の事です」 『それじゃあ――――ジェイド、お前は…?』 「私は初代ピオニー陛下よりその魔物を完全に眠らせるよう、勅命を受けた――――もう名簿から名は消えているでしょうが、 れっきとしたマルクトの臣下ですよ。…確かに、化け物じみた年月を生きてはいますが」 くすり、と。 奥底の哀しみを押し隠すように眼鏡を押し上げながら、ジェイドは冗談めかしてそう答えた。 「元は陛下直属の宮廷譜術士でした。私も、それから―――――彼女も」 そう言った折に、唐突にいやな気配が周囲を満たす。 察したジェイドはすぐに黙り込み、獣の身である分より強くそのいやな気配を察したピオニーも、窓を睨んだ。 ただでさえ日が差さず、薄暗いこの森の闇色が、いつも以上にその濃さを増している。 この感覚は、先ほど感じた寒気によく似ていた。 そうして気配が消えると同時にふとジェイドの方を見てみると、彼はいつになく厳しい面差しで外を見ていて―――――それだけで、 先ほどの気配が本当の『魔物』…ジェイド曰く元人間の魔物なのだ、と理解できた。 暫くは考え込むように窓を見たまま微動だにしなかったジェイドだったが、意を決したように立ち上がる。 きっと、その魔物のところへ行くのだろうと、何も言われずとも理解できた。 しかし―――――あの絵本にあるように彼が強力な譜術を扱えるのだとしても、この嫌な気配を漂わせる相手にただ一人で立ち向かうのは、いささか無謀なようにも思えた。 『ジェイド、お前…一人で行く気なのかよ』 「……ついて行く、なんて言わないで下さいね。あなたは呪いを解いてさっさと国を立て直してもらわなくてはなりませんから―――― こんな所で死なれてしまっては困ります」 『!だって、俺は……』 「貴方は禍つ運命の元に生まれた訳ではないのですよ、ピオニー。たまたまあれが復活するのが、あなたが王位に就く頃だというだけ ――――だから、あの預言は貴方自身が災厄という預言ではありません。だから貴方は私以外の、呪いを解ける術士を見つけて城に戻りなさい」 『でも!!俺は―――――俺、は…』 一人で行かせたくない。 ただそれだけだというのに、どうして彼は分かってくれないのだろう。 こうして、こちらの言おうとしている事は殆ど分かってくれているというのに、彼はどうしてこう大切な部分ばかりを読み違えるのだろうか。 こんなにも正確にピオニーの言い分を読み取っているというのに、だ。 恐らくはそういった術でも使っているのかもしれないが、分かっている上でこちらの言葉を無視しているのだとすれば、随分意地の悪い男だと思う。 「今までも、そしてこれからも、貴方達を守り、行く末を見守る…と。そうピオニーと約束をしました。私はその約束だけで生き永らえて きましたし、これからもそうするつもりです。そのピオニーにとてもよく似ている貴方を、死なせたくはありません――――――どうか、分かってください」 そう呟いて、ピオニーの頭をふわりと撫でると、白衣を脱ぎ捨てて扉の傍にかかっていた外套を羽織る。 血のように赤いそれを胸の留め金で固定し、ピオニーが何か言うよりも早く、彼は家を出て行ってしまった。 『やっぱり、倒さないことにはどうにもならないのか…』 低く、いかなる時もゆったりとした調子の声音が、蒼い軍服姿の男の耳へと届いた。 軍服の男が振り返れば、予想通り、そこには男の唯一無二の友人―――――そして、この城の主にして皇帝という地位にある男が立っている。 彼自身も戦装束に身を包んでいるというのを見れば、相当この国は追い込まれているというのが分かるだろう。 無論、そんなことは最前線で防衛にあたっていた男―――ジェイドには分かりきっっていたのだが。 戦のような慌しさに包まれた城内の者は、いつも威厳に満ちた皇帝とすれ違う度に敬意を払うことを忘れないのだが、それすらままならない位、混乱していた。 それもそうだろう。 今、ここはもともと城に勤めていた一人の人間に追い詰められているのだ。 唐突過ぎる危機に狼狽してしまうのは仕方のない事。 その上陥落寸前にまで追い込まれているこの状況では、下々の兵に皇帝に敬意を払ってから通り抜けるなどという余裕が存在しないのは、仕方がないといえば仕方のないことだった。 皇帝自身もわかっているのだろう、ばたばたと駆け抜けていく兵には頓着せず、いつもの笑みを浮かべたかと思うと、窓辺で物思いに耽っていたジェイドの横へと並ぶ。 『―――――そう、でしょうね。』 『………音素の暴走、だってな』 『―――――……はい』 探るような…というより、確信めいた様子でジェイドを見る瞳は、嘘や虚栄といったものをすべて見透かしているように見える。 観念したようにひとつ息を吐くと、ジェイドは暫時の沈黙の後に口を開いた。 『……私の、せいです。私が無茶なことをしなければ、彼女は』 『――――原因については…もう聞かん。事故だったんだろう?』 彼は、きっとすべてを知っているのだろう。 戦慄く唇を何とか動かして、ジェイドは続きを言おうとしたが、それを皇帝が遮った。 穏やかな笑みは何もかもを包み込むような包容力の大きさを表しているかのようで、しかしそれに甘えてはいけない、とジェイドは自らを律する。 『……………しかし』 『ジェイド、俺たちの存在意義は何だ?』 『…この国の保持です』 『なら、分かるだろう。今はとにかく、マルクトを守る事だけを考えろ』 彼の言葉は常に的確で、正しかった。 分かりきっていたことだが割り切れていなかったその感情を捨てろ、と、暗に諭されて、ジェイドはそれまで迷っていたひとつの案を 実行する決意を固める事ができたのだ。 『心得ています――――その為の案を今、検討していた所でしたしね』 『頼もしいな、懐刀』 考えていたのは、いかにして彼女を――――音素の暴走で悪魔のような魔物へと変貌してしまった譜術の師を亡き者にするか、その策だった。 城の一部を破壊した後、城下へと飛び出していって次々と家屋を破壊して回っているらしい彼女を、森へと追い込み、そこで上級譜術を使い体力を削り、そして――――心臓を一刺しにする。 魔物と化した為に彼女の身体は鋼のように硬く、それだけでも至難の業なのだが、もはやこの案しかない。 そう、殺すしか手段がない、と―――――ジェイドの頭は、その案とそれを実行する為の策をとっくにはじき出していた。 それを渋っていたのは、自らのせいで魔物となってしまった師を簡単に殺すなんてできないと、迷っていたからだ。 だが、彼はそんなジェイドの迷いも分かっていたのだろう。 一つ笑ってみせると、誰もいないのをいいことにジェイドの肩を引き寄せた。 『泣くのは後にしろ。全部終わった後なら――――泣き言でも何でも、聞いてやるから』 すぐ横で、ジェイドの耳にようやく聞こえるくらいの声で。 泣きたくなるくらい、ひどく優しい声音で囁いたかと思えば、引き寄せていた腕をすぐに離した。 「…昔の事を走馬灯に見るとは―――――やはり私も年を取ったという事ですかね」 鬱蒼と茂る森の、さらに奥。 ジェイドが正式なマルクト国民として生きた時代よりも更に年を経たかのような荒廃ぶりを見せる小さな祠の前で、彼は100年振りに 正式な『譜術士』としての格好をして、目の前にある、祠の扉にかけられている壊れた錠前を眺めていた。 錠前の形をしているのは単なる便宜上で、その錠前にはジェイドが当時の力の大半をつぎ込んだ封印術が施されていた。 そしてここには、マルクト一剣術に秀でていた初代皇帝と、同じくマルクト一の譜術士であったジェイドを瀕死の重傷にまで追い込み、マルクトの精鋭たる近衛隊を全滅させ、民や他の兵の多くをその手にかけた、ジェイドの師にして城の顧問譜術士であったある女性が封印されている。 ゲルダ・ネビリム。 それが、人間であった頃の彼女の名前であった。 たとえ相手がどのような立場の人間であったとしても、悪いこと悪い、良いことは良いとはっきりとした意見を述べ、皇帝相手だろうが 間違った道に進もうとすれば、笑みと共にそれは違うのだ、と諭してみせた。 そうした勇気と聡明さを持っていた彼女こそ、破壊の力ばかりに秀でていた己よりも、マルクトにとって重要な存在だった。 ………だが、それでも。 迫りくる敵に対し、僅かな焦りから難しいとされる最上級の譜術の制御に失敗し、音素が暴走したジェイドを助けてくれた。 彼女の身には余りある音素を一身に受け、彼女は異形の魔物へと変わってしまった。 ジェイドの力の半分以上を吸収し、マルクト一であったジェイドでさえかなわない程の力を得てしまった彼女は、その場にいた敵も蹴散ら してくれたけれど――――――破壊の対象が消えてしまった途端、仲間であったマルクトの民や兵へと牙を向けて。 かつて弟子であったジェイドにさえ刃を向け、肩へと深い傷を残して。 その正気を失った瞳を見て、ジェイドは何をしても無駄なのだという事を悟ってしまった。 そうして、悩んだ末に森へと追い込み、ジェイドが譜術で動きを止めている間に、剣の達人であった皇帝がその心臓に封印の剣を突き立てたのだ。 しかし、その時の彼女の力が強大過ぎて、剣は心臓に届ききってはいなかった。 それが分かっていたジェイドと皇帝は、動きを止めた彼女を石棺へと収め、ここへと封印した。 満身創痍であった皇帝は二度と剣を持てない体になり、ジェイドも彼女に力を吸収されてしまった事と、封印に力を注いでしまった為に、並の譜術士以下の力しか残っていなかった。 すぐにでも彼女を永遠の眠りにつかせてやりたかったのだが――――――当時の二人には、それが出来なかったのだ。 だから、待つことにした。 ジェイドは、力が回復するまで、かつて師が研究の為に構えた家で100年程。 皇帝は、自らの力をより強く継承する者が誕生するよう、自らの血筋の者に剣術を奨励して、彼が死した後もそれを続けさせ、100年。 そしてようやく、使い魔から100年前とまったく同じ預言が詠まれたと知らせが入って、ジェイドはとうに決めていた覚悟を新たにした。 きっと、その預言の者はピオニー…ジェイドがかつて友と呼んだ初代皇帝のピオニーの子孫で、同じ名を持つ彼なのだろう。 金色の狼という姿だが、もしや姿もあの男と似ていたりするのだろうか? 「……まぁ、もう知ることもないでしょうが。」 苦笑を浮かべながら、壊れた錠前を槍で落とす。 ジェイドは、この100年で何とかかつての力を取り戻すことができた。 無理に寿命を延ばしている為に体力の方が追いつかないが、それでもピオニーなしで彼女と互角に戦えるだけの自信はある。 だから、あえてともに戦わねばならない所を言わずに、一人でやって来たのだ。 追いかけてくるであろう事も想定して、あの家から出られないよう、ちょっとした仕掛けも施してある。 だから、どうか。 「今度こそ、幸せに――――――ピオニー。」 錠前によって堅く閉じられていた扉が軋んだ音を立て始めているのを聞きながら、ジェイドは淡く微笑んだ。 +反省+ |